夏真っ盛りとなりました。お寺の境内は騒々しく鳴き盛る蝉の声に溢れています。長い間、暗い地中で過ごし、やっと外へ出られるのは一週間という短すぎる時間。それでも蝉はそんなことを気にするでもなく、死ぬ直前まで一生懸命に鳴き続けているように聞こえるのです。
今回、取り上げる禅僧の一言は、白隠慧鶴禅師の「当処即蓮華国」です。白隠禅師は臨済宗では「中興の祖」と称され、江戸時代に低迷した臨済禅に、新しい風を吹き込み蘇らせた名僧です。一六八五年に現在の静岡県沼津市に生まれ、五歳にして浮雲の流れをみて、世の無常を憂い涙したほど感受性に富んだ少年であったといいます。そんな少年であったからでしょう。十一歳の時に、近くのお寺で僧侶が地獄の様子を講ずるのを聞いて、身の毛がよだつほどの恐怖を感じてしまうのです。それまで遊び半分で虫や魚たちを殺してきた自分は、必ず地獄に墜ちるに違いない。そして、白隠禅師は、地獄の恐怖から逃れるために出家をし、禅の道を志されるのです。
厳しい修行を積まれた白隠禅師は四十二歳で禅を究められ、その後八十三 才でお亡くなりになるまで、禅の教えの布教教化に邁進されます。その教化活動の中で、白隠禅師は『坐禅和讃』という、漢文ではなく読みやすい和文のお経を創作されるのです。
この『坐禅和讃』は、「衆生本来仏なり」という言葉からはじまります。「衆生」というのは、「迷い苦しむ人々」を、「仏」とは「悟り」分かり易く言うならば「幸せ」を意味しています。つまり、迷える私たちは、幸せを生まれながらに持っていると説かれているのです。
そして、この和讃の結びにあるのが、「当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり」という言葉です。「当処」とは「今まさに目の前」、「蓮華国」とは「最高で最良の場所」であること。つまり、今現在の自分が置かれている場所が、自分にとって最高で最良であると、心から思うことができたなら、人生は「幸せに満ちあふれている」というのです。
外に幸せを求めるのではない。今、目の前のことに幸せを求めていくことが大切であると、白隠禅師は教えてくれているのです。
私はこの言葉が大好きで、ことある毎に坐禅会等で紹介しておりました。どうしても私たちは、他の人や、他の境遇と比べることで苦しんでしまいます。目の前の現実と、理想の自分を比べては、そのギャップに悩んでしまうのです。そんな私たちにとって、「他と比べる必要はない」、「今、目の前こそ最高だ」と、前向きに生きる指針を与えてくれる言葉だからです。
しかし、私はある坐禅会で一つの質問を受けました。
「世界で紛争に直面している子どもたちに、あなたは同じことを言えますか? 」
紛争地域で生活せざるを得ない子どもたちは、すぐ隣で命を落としている人がいて、自分たちもいつ死んでしまうかわかりません。もちろん戦争や紛争だけではありません。食べるものがなく、不衛生な環境による伝染病などに苦しんでいる子どもたちは、世界中にたくさんいます。そんな悲惨な状況におかれている子どもたちに、「今、目の前こそ最高だと思う」というこの言葉を、果たして自信をもって言えるでしょうか。恥ずかしながら私は何も答えることができませんでした。
誰が好き好んで、そんな場所に生まれたいと思うでしょうか。生まれる時間も環境も選ぶことのできない私たちは、たまたま産み落とされた場所を、それこそ最高であると思わなくてはならないのでしょうか?
どうしてもその答えが見つからない中、テレビで放映されていたスタジオジブリの映画『火垂るの墓』を見て、私はハッとしたのです。
両親を失ったおかっぱ頭のかわいい女の子と少年の物語。預けられた親戚と折り合いがつかず、子ども二人だけでの生活を始めます。そして最後には、戦争による空襲や食糧不足で命を落としてしまう物語です。
この映画の高畑監督が取材に応じた言葉の中に、私はあの質問の答えを見つけたのです。
『火垂るの墓』の劇中よりも悲惨だったという自身の空爆体験を語った高畑勲監督は、インタビュアーにこう言われるのです。「人間は悲惨さだけでは生きられない」と。
そして、「悲惨さだけを描いたつもりはない、子どもは楽しみや自由をみつける天才。戦争中も声をたてて笑い、ふざけ合う。自然とふれあいながら遊び、日常のささいな出来事で喜ぶ。そんな姿も描いた。そういう日常を破壊する戦争は絶対に許さない」と、この映画に込められた思いを述べられたのです。
どんなに悲惨な現状でも、その中にきっと楽しみや自由がある。白隠禅師の頃も平穏無事な毎日であったはずはありません。飢饉や天災に遭遇し、たくさんの人が命を落とすような、まるで地獄のような状況もあったでしょう。現代もまた然りです。異常気象や大地震、ストレスや病など、私たちの日常を脅かすものが多々あるのです。そして、それでも私たちは生きていかなくてはなりません。
だからこそ、白隠禅師は教えてくださるのです。私たちも目の前の日々の現実に対して、少しだけ見方を変えて、子どものような視線をもってすれば、「当所即ち蓮華国」と心の底から思うことができ、その中にこそ幸せがあることを。
1979年生まれ。東京都世田谷区・龍雲寺住職。松原泰道の孫。佛教大学卒業後、京都・妙心寺専門道場にて9年間禅修行。花園大学大学院修了。妙心寺派布教師。東京禅センター副センター長。NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』禅宗指導。朝日カルチャー新宿教室、早稲田大学エクステンションセンター中野校講師。著書『わたしの坐禅』(青幻舎)、『人生に信念はいらない』(新潮社)、『迷いが消える禅のひとこと』(サンマーク出版)ほか。