名僧は語る

5.苦しみについて

市川智康(いちかわ ちこう)日蓮宗

市川智康
(いちかわ ちこう)
日蓮宗

市川智康(いちかわ ちこう 1934‐)日蓮宗僧侶。立正大学大学院仏教学専攻。日蓮宗伝道局長・日蓮宗大本山池上本門寺学頭を歴任。

 私たちのいま生きているこの世界を、仏教では「苦の娑婆(しゃば)」とよんで、きらっています。
確かに、何事も自分の思い通りには事が運ばず、周りに気をつかったり、相手と嫌な思いで付合わなければならず、まさに、この世はままならない、苦悩の連続なのです。

 楽しい、嬉しいと思った時はすぐに終って、嫌な思いの方が長く感じられます。満足した思いは一刻しかつづきません。

 だから娑婆世界を「忍土(にんど)」、がまんしなければならないところと呼ばれる由縁です。苦しい、つらい思いをして、それに耐えて一所懸命に努力して目的を達成できたときは、こんな嬉しい事はなく、むしろ、楽々として仕上がったときよりも、苦心してできたときの方が、喜びの感動はくらべものにならないくらい深いものがあります。

 まさに「苦あれば楽あり」の諺(ことわざ)のとおりです。とすると、苦しみは喜びの種子ということになります。

 戦後の食べるも物もなく、生きていくのがやっとという時代を考えたとき、現在の日本の生活は、当時まるで想像もできなかったような豊かな恵まれた生活を送っています。

 しかし、わたしたちは常に不満をもって生きています。恵まれた生活だということを知らずに、あるいは知ろうとせずにいる人が増えてきています。感謝する心を失った心貧しい人が増えているように思えてならないのです。

 なんでも欲しいものが手に入る生活の中で育った人には、物がない、食べるものがない生活など想像もできないことですから、有難いと思う気持が持てないのは無理もないことかも知れません。そうすると、貧しい生活をしたおかげで、豊かな生活を味わえることができるということで、貧しい暮らしもまたよしということでしょうか。

 私たちは、どうも目の前のことばかり気になって、それに振り回されているようです。「禍福はあざなえる縄のごとし」のことわざもあるとおりで、もっと長い目、視点を高くしてものを見る必要がありそうです。

 無駄なようでも決して無駄ではない。無駄にしないようにすれば、積み重ねの基盤の一つの大事な役目になると気がつけば、病んだおかげで健康の有難さがわかり、家族や周囲の人の思いやりの温かさを知ることもできるというもので、「病むもまたよし」という積極的な生き方に転換できます。見方、観点の転換です。

 「さいわい」という意味のヘブライ語には、また、「あるがままにある」という意味があるそうです。「あるがまま」をそのまま素直に受け入れられるときが「しあわせ」ということです。

 『法華経(ほけきょう)』方便品(ほうべんぼん)に「諸法実相(しょほうじっそう)」という言葉があります。すべて存在するもの(諸法)は、すべてものの有り様を示している。すべて存在する理由があって存在しているものであるということです。

 わたしたちは、それを自分の立場からだけの判断で、善い悪い、いる、いらないなどと、きめつけてしまっています。

 何か自分に語りかけてくれているものがあるはずだと、物事を受けとめたとき、苦は姿を変えます。苦の娑婆も、忍土ではなく、人間性を高めるための宝の山となることになります。娑婆こそ浄土という由縁です。

 『法華経』方便品の中に、「仏さまは『仏知見(ぶっちけん)』を示し、悟らせ、仏知見の道に入らせようとするためにこの世に出現された」と説かれています。

 苦の中にも、輝きを見いだす生き方が仏知見なのでしょうか。

 日蓮聖人(にちれんしょうにん)(日蓮宗の開祖・一二八二年寂)の言葉の中にも、

 題目の光明に照らされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる

 とあります。自分の物差や立場で、ものごとを推し測ったり、考えたりせずに、私見をまじえずにもっと公平な、大きな高い視野に立ってものを視、ありのままの姿を素直に受けとめられたときには、そこにはすべて「いのちの輝き」が光っていることに気づくのです。

 それを信じて、及ばずながらも自分たちも努力していくことが大事なことで、それによって仏の知見に近づくことができるのです。