先学に聞く 第2回:宮城泰年(聖護院門跡 門主)

第2回:宮城泰年(聖護院門跡 門主)

大切にしている言葉

智目行足清涼池に到る

(『法華玄義』(ほっけげんぎ) 天台大師 智顗(538-598))
本山修験宗総本山 聖護院門跡 門主
1931(昭和6)年、京都市生まれ。龍谷大学文学部卒業。新聞記者を経て、25歳で聖護院に勤務。 執事長、宗務総長などを経て、2007(平成19)年、聖護院門跡第52世門主に就任。
龍谷大学客員教授、日本宗教者平和協議会代表委員、京都仏教会常務理事などを歴任。
『山伏入門』(淡交社)、『動じない心「曇り」を磨き、「心」を鍛える、「山伏」力』(講談社)、『修験道という生き方』(新潮社)など、共著、監修書多数。

01.はじめに

―本山修験宗のご門主としてパワーの源泉について、まずはお教えくださいませ。
体力というものだけではないね。我々のいう山の中では、気力。体力のほかに、気力というものがあるし。気力というと、一般のスポーツやなんかでも使われる言葉だけれども。さらにそれを深めていく中で、同一化する。言葉ではなしに、山の中へいったら、その土地と一緒になる。木の中に入ったら、林と一緒になる。滝の中へ入ったら、水と一緒になる、火渡りをするときには、自分も火の一部分なのだという観念になる。
それがないと、滝から弾き飛ばされたり、火の上で火踊りせんならんようなことにもなってくるから。対象ではなく合一するという考え方というのは、非常に大事だと思うのです。
―なるほど。それは、やはりご経験から体得されたのでしょうか。それとも、師匠からの導きがあったのでしょうか。
両方ありますよね。師匠がいつも使っていた言葉に、「抖擞浄心(とそうじょうしん)」という言葉があるのです。抖擞というものは、難しい漢字を書きますけれども、要するに祓い清めるという意味の頭陀行(ずだぎょう)です。生きていく中で、諸々の邪心を祓い清めて、素直な心になっていくのが、抖擞浄心なのです。そういうふうにならないと、世間を受け入れられない。しんどいこともあるし、もちろん、呵呵大笑。笑うようなこともあるし、いろいろなことがありますけれども、素直に受け入れられるようになろうとすれば、心が広くないと受け入れられない。物事に対して「それは、私の考え方とは違う」と、言うことではなくて、受け入れ理解し合う器をつくるためには、滝に入るにしても、火に入るにしても合一していかんならんのです。
―素朴な質問で恐縮なのですけれども、自分の中でスイッチを入れて、滝行に入るのですか。それとも常にそういうお気持ちなのでしょうか。
常にやっていたら精神が持ちませんね。そこに入る前です。ですから、山伏がよく何か修行するのを紹介されますね。九字を切って「いやーっ」と言って、入るのを見るでしょう。九字というものは、きちんとした作法がありまして、精神統一をしてから入るというのが基本です。そういう精神統一と作法の一つです。たとえば、大峯の山に入るというときには、まず初日に、水垢離を取るわけです。
そこで「ここが結界、ここからが山なのだ」と意識する。水垢離を取って、山に入るという意識に切り替える。それから1週間の奥駈修行の皮切りになるというわけです。
一方で、滝行や火渡りなどというのは、すぐに入るわけですから、その前に九字を切って入る。あるいは、九字を切らなくても、刀印で身を清めるなど、その短い作法をする間に、自分も火の一部分という思いになる。自分も水の一部分になるという同化する思いを、自分に強く受け入れるというのです。我慢するとか、バリアを張ってしまったら、駄目なのですよね。一緒にならないと。
しかし、「じゃあ、冷たさ感じないの?」とか「滝の重さを感じないの?」などと言われると、太い滝などで圧力は感じますよね。耐えるために、足も踏ん張るし。だから、精神的なものだけではなくて、気力も体力もいるのは当たり前だと思うのです。
―気力とおっしゃった裏側には、同化しようと思っても、出てくる自我みたいなものはありますか。
大ありですね。だから、いつ、どの滝に入っても、そんな純粋に入れるかといったら、そうでもないですよね。
越生という町にある、黒山三滝に入ったのです。滝に入る前には、純粋にピュアな心で滝に入った。滝に入って、パッと向きを変えて、滝を背にしたら、目の前にズラーッと、見物の人が並んでいるのです。そうすると、やはり皆の目線が気になりました。格好よく入らなあかんという思いになってしまった。滝から出た途端に、皆で拍手をしてくれて、良かったのか、悪かったのか(笑)
大峯、あるいは葛城で厳しいコースを歩けば、どれがということではなしに、ずっとその緊張の連続です。行場というものを通るからね。行場は、やはりいろいろありますから。そのときには、岩にへばりついて、自分も岩の一部分だというぐらいの思いで行きます。岩と別物やと思っておったら、駄目なのですよね。完全に岩の一部分という思いで、足がかりを見つける。
山上ヶ岳に平等岩というものがあります。とても怖いです。落ちたら当然のこと、命を失うようなところ。突き出た岩をほんの数歩、3歩ほどで回るのですけれども、その岩に抱き着いているときには、本当に自分もこの岩と一つにならなければ落ちてしまう。大峯の山上ヶ岳にいろいろな行場がありますけれども、一番、精神統一というのかな。、一体感を持たなければできない行場が平等岩です。
しかし、全員がそんなに岩と一緒になれるような気力を持っているわけではないから、山先達が回っている人の襟髪を、ガーッと掴んで、片手で人を引き上げるぐらいの力を持っているのですが、それが支えになって、ぐるっと回るという。そのお陰で事故はないのですけれども。
01.はじめに

02.人生の転機 仏教を意識する

―ちなみに、初めて山行されたときは、おいくつのときなのですか。
初めては25歳のときです。それ以前のときには、軽く1泊2日みたいなもので行ったことがあるけれども、それは本格的な行とはいいませんから、それは省いて、25歳ということにしておきます。だから、修験者としては、この修験一本で今日まで来ている人間としては、少し遅いスタートですね。
―大学を出られて、新聞社にご入社されたとうかがっています。その25歳で初めての行のときは、世俗的には、どういうお立場だったのですか。
新聞記者を辞めて翌日から入りました。7月30日に新聞記者を辞めて。そして、8月1日から参加したのです。だから、修験者としてのスタートであり、聖護院の職員としてのスタートであり。人生の転機といいますかね。
1 8歳のときに一度、1泊2日で山上ヶ岳を往復したということがあるのですけれども。そのときは、修験者になるという覚悟がなかったから。ただ単に、みんなとついて一緒に行こうという感じ。だから平等岩も、もう18歳のときにやっているのだけれども、本当に記憶がないのです。
しかし、その25歳のときの、初めての行の決意は、それとはもう比べ物にならない。それほど立派な心掛けではなかったけれども。というのは、そのときに8ミリカメラを持って歩いていたのですよ。
そういう娑婆気を多分に持ったままで一週間の奥駈修行であった。だから、行に入るときは、それ以後のそういうピュアな、岩と一体になるのだというような心境には、まだ入っていなかった。全然芽生えていなかった。
その1回目の奥駈修行のときに、いろいろ教えられ、会得してそれで、2回目~3回目以後から、徐々に徐々に岩と一体にならねばいかんのやと。私を捨てなければいかんのやということは、それから芽生えてきました。1回目は、お試しみたいなものだったと思います。
師匠から「抖擞浄心じゃ」と普段聞いているので、それが「こうなのだな」どというものではなく、歩いているうちに「ああ、抖擞浄心というものは、こういうことを言うのであったのか」というふうに、わかってくるのだよね。歩いてなんぼの世界と、よく言われますけれども、教えられるというのは、大峯の場合は実際に歩いて、行をして、その中へ入って、初めて教えられていた文字が、改めて生きてくる。
そういうことでしょう。天台の智顗『法華玄義』の中の言葉に「智目行足清涼池に到る」があります。
智目行足というものは、智慧の目と、それから行の足、体験ですよね。それで、その両方が兼ね備えられていないと、駄目なのだと。その両方があってこそ、清涼の池。清涼ということは、悟りということをいうのですけれども、要するに、その境地に向かっていく、清涼の池に向かっていく。大峯に入ったら、行足の面が非常に強くなりますけれども、師匠が言っていた言葉。あるいは仏典や、いろいろな書物から教えられる言葉が、山から帰ってくると、「ああ、この言葉はあれを指しているのか」など。やはり両方が、一致してくるところが、智顗の言った世界、清涼池になるのかなと。
―なるほど。さらに先の経験に至るまでのお話をおうかがいしたいと思います。この聖護院様でお生まれ、お育ちになられて。いろいろなご経験をされる中で仏教というものを意識されたときというのは、いつ頃のどういう出来事でしょうか。
仏教を意識する。そうですね。
お寺に生まれていますからね。それを意識する、しないに関わらず、その中にいたわけですし。ただ、明確に仏教というものを意識するようになったのは、龍谷大学へ入ってからです。つまり、龍大の同窓生などは、大学を卒業したら寺へ戻って行くのですね。そういうものに少し抵抗を感じましてね。大学を出たら、必ず仏教と違う世界を経験してみたい。、仏教から離れた世界を経験してみたいというのが自分にとっての「仏教を意識した時」でしょうね。
もちろん、得度したのが、中学生のときですから、そのときすでに仏縁ができているのですが、強く仏教というものを意識したというのは、仏教の世界から一度は離れたいという(笑)。そういうときではなかったかと思います。
父親が、よく外へ放してくれたなと思います。2年で帰ってこいという約束は、守れず足掛け4年になったけれども。
もう、聖護院に戻ってからは意識するしないに関わらず、一日がそういう生活ですし。廊下の掃除は、毎朝の日課になっていた。本堂の廊下や床を拭いているときに、節があり、傷があり、そういうものが毎朝、毎朝同じところを拭いているうちに、節も傷も全部覚えているわけなのですよ。今でもわかっていて、その情景が見えるのです。だから、本堂の床はこうだ、宸殿(しんでん)床はこうだなどというのは、おのずと寺へ入っての生活というものは、やはり仏教の世界、修験の世界と、だんだんと一致していくのだろうな。
大学時代というものは、今でも外向的だったとは思っていませんけれども、人と接することは、それほど得意ではなかったと思うのですよ。限られたメンバーの輪にいただけでね。ところが、聖護院へ帰ってきたら、信徒はいろいろな立場や職業の人がいます。
鈴懸を着て山伏になったら、みんな山伏の修験者だけれども、鈴懸を脱いだら、魚屋さん、八百屋のおじさん、あるいは学校の先生、いろいろな人がいるし、どんな人とでも、信者という人たちと接するのに、壁というものを感じなかった。信者さんは、壁を感じていたかもしれませんよ。お坊さんであるし、私の父親はここの総長をしていたわけだし、偉い人の子どもであったかもしれないけれども、そういうふうな立場ではなくて、誰とでも気楽に話ができていました。それは、新聞社での社会体験のおかげだと思います。
03.伝道について

03.伝道について

―ご門主が考えられる伝道というものは、どういうものでしょうか。
伝道。道を伝えるということですね。修験の場合は、道というものは、全てが行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に至るので、山の中での行住坐臥を伝えていく。全て。その中には危険な世界も入っているわけなのですが、それをも伝えていく必要があると思うのですよ。伝道というのは言葉だけではない。修験の場合はね。体で伝えなければならない。それが大事だろうと。日常でもわれわれの修行、学僧生活というのは、言葉が中心ではない。先輩がやっている廊下掃除、拭き掃除、読経、それを見てどういうふうにやっていけばいいかというのを覚えていく。それを補うのが言葉ではないのかな。
言葉から発していくところの世界ももちろんあるけれども、それは、私達の世界にとって限度があると思うのです。伝道という言葉を考えると、まさに修験の場合には、実体験としての修行の道程かなと思います。
道というのは、同じ姿をいつも現してくれないですね。一つ大雨が降れば、形が変わりますからね。本当に去年の道はこうだったけれども、今年の道は違うということがざらにあるのだし。
ただ、山の中で何とも思わずに、無心というのではなしに、学ぶ心なしに、ただ人について歩いていっているだけでは、学べないなと思うのです。常に無心で歩くことも大事なのだけれども、常に考えながら受け入れていく。その中で「なるほど。ここのところでこういう風が吹くと、翌日は雨になるな」など。それから木の匂い、灌木のところもあれば、針葉樹のところもあるし、岩山もあるし、そういったところの匂いが、違うのも、自然とわかってくるのです。それが、どうなのだと言われれば、別にどうというわけではない。しかし、そういうものを感じる感覚が鋭くなっていくな。無心というのは、そういう感覚を得るための無心であって、考えない無心ではないと思うのです。
だから、私達が歩いているときは、風向きと雲の流れ。そういうもので夕立がくるのがわかる。あるいは同じように見えていても、この夕立はここへはこないぞという判断ができたものです。この頃はみんなスマホを持っているから、お天気などでも、すぐにわかるでしょうけれども。
だから、初めての山へ行くときなども、2万5千分の1陸測の地図磁石を持って。磁石を地図に置いて、方角を見定めて、ルートを確認することも、経験してきている僕らにしてみたら、今、スマホの世界になったとき、なんと便利やけれども、なんと物事を考えさせてくれないのかなと。便利ではあるけれども、人間の感性を育てないなということ。五感の世界であったはずの山が、五感の世界ではなくなってくる。
伝える中には情報だけでなく、体験やそれから得た智慧も必要でしょう。
04.2つの失敗から学んだこと 1つめの失敗

04.2つの失敗から学んだこと

1つめの失敗
2つほどの失敗があります。失敗は常にあるのですが、大きくは2つありまして、1つめは大日ヶ岳という山に登ったときのことです。鎖で登るのですが、傾斜が40度くらい。岩をずっと鎖で登って、鎖の長さが30mほどでしょうか。そして、てっぺんの三角点は、10人も立てばいっぱいになるのです。
今度は、ここから降りるのですけれども、登った側にはもう降りられませんから、奥ぐるっと回って元のルートへ戻らないといけないわけです。
降りてくるのに、直線的に降りるのではなくて、ぎざぎざぎざぎざと歩いて20mぐらいを降りるのです。たった20mの距離だけれども、まっすぐには降りられないから、昔から回って降りて、遠回りして降りる。幅2m足らずの踏み跡があるところを、ぐるっと回って、元のルートへ戻っていくのです。その時、私はどういうわけか、なんとなく決められたルートではなく急斜面をまっすぐに降りることを考えました。40度ほどの急坂ですが、自分の大峰のなかでそういう経験はしているので、出来ると考えたんですね。
ところが降り始めて数歩もしないうちに足を滑らせ、つかんだ木がポキッと折れてしまいました。「しまった!」と必死の思いでつかんだ草も雨上がりだったので抜けてしまい20メートルほど転落していったのです。
「執事長!」と呼ばれて気がついた。その時は執事長だったからね。岩の棚になっている部分にぶつかる直前に、二股に分かれていた木に、足がすっぽり入って逆さ釣りになっていたんです。その木に足が入らなかったらわずか2mの棚でバウンドして100mの崖を落ちてバラバラになります。
その落ちていくときに、何が見えたかといったら、この100mの崖を転げ落ちていく自分を横から見ているのです。私が転げ落ちていくのを、私が見ているのです。わずか、転げ落ちる間ですから、3秒か、5秒かね、時間はわからないけれども。
それが本当に不思議でした。もうそのときは、不思議などということよりも、ただ、自分の落ちていくのが鮮明に残ったのです。滑って草に取りついたあと、それだけが見えていたのですから、不思議だなと思います。僕は、そこで、一度死んだのだと思った。
本当は、ここで死んでいるのですよね。ぶら下がっていた木から助け降ろされて、時計と眼鏡を失った。ところが、怪我一つしていないのです。
気は失ったけれども、どこかを強く打ったなどはないのです。そのときは皆が「仏さんが助けてくれたのだ」、「あれは、仏さんの手ですわ」と言って。それで、私も「本当にそうだね。感謝しかないな」と言って。よく考えてみたら、これが普段精進していない人だったら、どうなるのか。落とされるのかと。私は、それだけ精進してきたのかなと。否、それは縁だなと。今は生かされる縁なのだと。考えてみれば、そうだな、縁があってこそ、生きるも、死ぬも、一つの縁だという。そういうようなことを感じたのですが、これは、なぜそんな失敗をしたかというところが、問題ですよね。
実は、25歳から50歳まで、僕は割と早く大宿(おおじゅく)になったのです。25歳で、60~70の先達が、こうして静かに歩いていくのを見て、学んだ初心の自分がいて、その翌年には、もう大宿させられたのです。要するに、トップリーダーですな。
もちろん、吉野から山上ヶ岳の一日は、別の者が大宿したのです。ところが、そこからいわゆる奥駈道に入って、一番危ないところへ行く道は、いきなり僕に大宿させられたのですよ。ある種、しごきのような中で、大宿をさせられたのも一つの経験です。以後、大宿というものはかくあるべしということで、僕は26歳から大宿をし続けていたわけです。
そして、大宿というのは、やはり一群を統率していかないといけないし、失敗したらいけないのですけれども空気や匂い、音などで、いろいろなことがわかるようになってきていた頃でしたから、僕ならやれると。それまでにもルートの違うところを歩いて、抜け出したりなどやったものですから、僕ならこれを降りられるという、そのときの大宿であるという立場ということよりも、「僕なら」という我が先になってくる。「大宿の私は」と考えなかったのだろうと思うのです。だから、僕ならやれる。その裏には、もしもこのまっすぐに降りるルートが成功したら、少し天狗になったかもしれない。天狗になってやろうと思ったわけではないけれども、一丁やってみようという慢心があったのです。大いにあったのです。
それが、結局、失敗につながった。もしも、私がそこで死んでいたら、そのときの理由は、それこそ歴史に残るものになってしまう。失敗ですからね。一群がそこで修行を中止するわけですからね。それで、そういうことをやらかしたというのは、大いなる反省しかないですよね。
04.2つの失敗から学んだこと 2つめの失敗
2つめの失敗
よい教訓を得たということがありますのと、お天気が読めると言いながら、そのお天気を確実に読んでいたのに失敗したこともあります。転落した2年後、52歳のときです。京都を出発して2日目。吉野から奥駈に入った初日。一番よく行っている、山上ヶ岳というところで一日が終わったら、護摩焚くのですけれども、本堂の横で採燈護摩(さいとうごま)を焚いたのです。山伏が周りをずっと囲んで、真ん中に大きな壇を組んで、火がうわーっと上がる。そこでお祈りを捧げるのです。
そのときに、採燈師大宿は、50センチくらいの長さの木を持って、右手に持った不動剣でお加持をして、火の中に入れる作法があるのです。ちょうどお焚きを始める頃に、南のほうにわーっと雲がかかってきて、それまでいい天気だったのに雲がどんどん濃くなっていくのがわかった。
しかし、山伏は雨が降ったって、作法をやめませんからね。夕立が来るのはわかっていた。そして雷も。向こうで電雷がゴロゴロというのもわかっていた。
当然、ここへくるのはわかっていますよね。そのときに私は法剣を持って、構えた。突如バチバチと来て、頭のてっぺんから足の先まで、要するに全身を鞭で引っぱたかれたように、バシッという電流の音を感じたのです。そして、下はもう水たまりになっていましてね。
横にいた山伏たちが、「うわーっ」と声を上げたのだそうです。私はその瞬間、棒立ちになっていますから、下に座っていた山伏も、足元から電流を感じたのだそうです。おそらく、私に伝わっていた電流が、そっちに流れたのだろうと思ったのですけれども。それで、はっと気がついて我に返ったら、刀を下に向けてしまっていたのです。
お不動さんは不動剣を持っています。不動剣は108本の木にお加持をして、火中に投じるということは、その108煩悩を消滅して、清浄な心身になって、修行を続けるということ、その願いが込められている。
お不動さんが誓いの剣を持って修法しているのに、雷でいつの間にか、無意識に剣先を落としたというのは、完全にお不動さんになりきっていない。先ほど、なりきると言ったでしょう。そのなりきりが、全然できていないのです。恥ずかしかったです。
「ああ、なんたるこっちゃ」と、その瞬間は「ああ」と、もう本当に口に言えない恥ずかしさ。けれども、作法は続けないといけないから、また気を持ち直して、続けていきました。
その日、私は少し風邪気味でもあったのです。そうしたら、二の宿が「宮城さん、あんた、少し風邪気味やね」と言うのですよ。「やめときなはれ。さっき、雷が落ちたんは、やめとけっていう印だっせ」と言った。それで、私もそう思い「やめとくわ」と。体力的には自信はあったのですけれども、気力的に、意気消沈して。
それで、山を降りました。電話で知らせを聞いて急いで私を迎えるため、先達が一人途中まで上がってきました。「雷に打たれたんですって!?」と聞くわけです。「いや、雷が落ちたんやけどな、風邪気味だから、もう大宿はやめることにしたんよ」と。実際には、風邪気味よりも、気力を失ったことのほうが大きかったと思うけれどもね。それで、降りてしまったのです。そのときは、本当に気力を失いましたね。大いなるお諭しというのか、「お前は、ばかか」というわけですよ。
それが、僕が大宿をした最後の年になりました。あとの大宿が育ってきたことも、もちろんありますし、翌年から大宿は、若い者に替えました。
やはりそれも一つの縁だったのだなと。私が、ずっと大宿を続けていたら、次の大宿が育たないということもあり、自然の教えだったのかなということです。
話しは戻りますが、下へ降りて宿へ入ったら、10人ほどの女性班のメンバーがそこにいたわけです。「宮城さん、雷に打たれて大丈夫ですか?」と。風邪ではなくて、雷の話になってしまっていたらしい。「いや、大丈夫、大丈夫。風邪気味だしね。皆さん、明日、元気に行ってな」と。私は、もちろんそこでみんなと一緒に夕食をとって、お風呂に入って、のんびりできたから、早く寝てしまった。
朝、みんなが出発するのは、5時頃です。疲れているし気づかずに寝ていた。どうやら布団から足が出ていたそうです。そうしたら「執事長、行ってきます」と障子を開けた女性たちが「あの足の裏をみてよ!」ということになったらしい。
僕の足の裏の土踏まずのところが、100円玉くらい真っ黒になっていたのです。それで、女性たちは、みんなそれを見て「雷が抜けた跡があるのに、それでも歩いて降りてきなさった。すごい」と言って(笑)。
「執事長は、雷に打たれても耐えて生きてこられた。」「私たちも絶対にこの奥駈だけで、弱音吐いたらあきまへんで」と、みんなで話したそうです。それで、みんなは無事に満行、帰ってきて。それで、僕はそんなことは露知らず、出迎えた。満行してきた女性たちが「執事長はすごい体の持ち主で、雷があんなに焼けこげをこしらえるほどの電流が通っても、大丈夫なのだからと私たちは感心した。」と賞賛することしきり。半月かその前に蚊に刺された跡が少し化膿してかいて、かさぶたに(笑)。言わなかったらよかったのですけれども、ばか正直にそう言ってしまったので「なあんだ!」と(笑)。
よく偉大な僧侶が、泰然自若として寂に入られた、座禅を組んだままで亡くなられたなど、そういう話があるでしょう。智証大師円珍さんだって、七日前に、「私は七日後に死ぬ」とおっしゃったなど。そこまで高僧だから、そういう伝説ができるのだけれども、私は高僧にならなかったからな(笑)。
僕は50歳のときに転落し、命を失いかけた。だから、今90歳を越えた僕は生まれ変わっていて、40歳くらいなのかもしれないなと(笑)。
05.若い人に対して伝えたいこと

05.若い人に対して伝えたいこと

―お気持ちのこもったお話をいただきました。では、最後に若い世代に向けてメッセージをお願いしたく存じます。
それは最初に言ったように、一体になるという。なりきるということが、僕は大事だと思うのですよ。自分がやっていかなければならない仕事、生き方というものは、なりきってこそ、初めて本当の目的が達せられるのか、見えてくるのか。そういうことだと思う。
ここ聖護院門跡には、学僧者が2年間修行に来るのです。とにかく、ここで2年間過ごしたら、住職資格ももらえるし、いろいろな伝法も受けられて、一人前になっていくために必要だということではない。「学僧になりきる」というところから始まる。実は僕は、学僧生活をしていないのです。大学を卒業したら、すぐに外へ出てしまったし、帰ってきたら、すぐにここの職員になったし。
ただ、ここに住んでいるおかげで、廊下掃除。掃除だけは、ずっと続けてきた。その中で、廊下の掃除をすることも、それから毎日の経典読誦のことも、いろいろなことをやるにしても、最初に言ったように「なりきる」、そこに没入するという、そういう心掛けを持たなければいかんのではないか。人生を生きていくために、それがはっきりした目標になっていくのではないかな。少し話しは変わりますが、先日からの大雨などで、地滑りが起こるなど、そういうのがよく言われているでしょう。ああいうものが起こるのは、ほとんどが植林地帯なのです。原生林のところは、ああいうことは起こりにくいのです。
植林地帯というものは、みんな根が一様なのですよ。みんな同じなのです。大峯の原生林というものは、真っ直ぐに生えている根もあれば、こんなふうになっている根もあれば。あるいは、岩の上にこうなっているものもあれば、岩の上では生きていけないのが、伏してこうなっている。いろいろなものが絡み合って、山を保っている。
だから、山は比較的崩れずに保っているのです。そのことは何かといったら、お互い助け保ち合っている世界だと、僕は思います。
だから、いろいろなものがあって、お互いに支え合っているというのが、社会構造と一緒なんだろうと。同じ人間ばかり、同じ意見の者ばかりいたら、もう弱くなっていくだろうと思いますね。
自然の摂理の中に真実を見ることが出来るし、問題の解決が見えることがあります。若い人に努めて自然に接して自然を「見る」ではなく「観る」ことをしていただきたいですね。
修行は実体験を重視します。自然の中で摂理を五感で観察して欲しいですね。物事の真理、教えを見ることが出来ますから。
インタビュー日:2022年7月15日
聖護院門跡(京都市左京区)
文責:金澤豊(仏教伝道協会)