ネルケ無方の処方箋

VOL.05 恋すること、愛すること

  「恋することと愛することの違い、君たちにわかるかね」
  高校の授業のある日、先生にそう聞かれた。恋することは英語ではto be in love。愛することは単にto love。そのころ、ちょうど初恋をしていた私にはどちらも同じようなことだった。相手を好きになり、相手にも好かれること。それは今まで経験したことのないハッピーな気持ちであった。
  「恋愛=ラブ」と確信していた私たちに、先生はこう続けた。
  「恋しているかどうかは、本人でなければ分からない。愛しているかどうかは、相手が一番よくわかる」
  恋に落ちたその日から、二人には世界が変わって見える。初恋を経験したことのない人には、その気持ちは分からない。
  「僕たちには、世界がとくに変わっているように見えないけど?」
  いや、好きになった相手にすら、この胸の焼ける思いは言葉を尽くしても、うまく伝えられない場合が多い。好きで、好きで仕方がないこの気持ちを…。
  しかし、本当の愛はそれと違うと先生が言った。愛は気持ちではなく、実践だという。高校生の私たちにも、目覚めなければならない時があった。初恋の気持ちはそうながく続かない。ちょっとしたことで勘違いが起こり、けんかになり、やがて音信不通になったりするのは多くの恋愛のパターン。初恋の相手と結ばれ、そのままハッピーエンド…というハリウッド映画によくある話は、現実にはなぜかあまり聞かない。そんなことを初恋にうつつを抜かしている高校生に私を力説したとしても、とても聞き耳を持たなかったと思う。
  さて、道元禅師の『正法眼蔵』の「生死」の巻には、次の有名な言葉がある。
  
  ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
  
  現代語訳を試してみよう:
  
  「今ここ、自分の身と心を手放して、仏の家の中に投げ入れること。
  そうすれば、仏の方から全てが行われている。
  自分は仏の力に従うのみである。ただ従うだけで、自分で力むこともなく、あれやこれや悩むこともなく、生死から自由になる。そういう生き方をしている人こそ、仏だ。おい、どうして『自分』に執着し続けているのか!?」
  
  この書物がいつ書かれたかは定かではないが、道元禅師が中国から帰ってからまだそれほど年数が経っていないころだと想像する。親鸞聖人の教えと引き合いにされることの多いこの数行では、道元禅師は中国で得たとされている身心脱落の体験を表現している。禅修行は自力だといわれることはあるが、そうではない。修行は頑張ってするものではない。身も心も手放せば、坐禅は坐禅をし、念仏は念仏を唱え、命は命を生きている。「仏の方から全てが行われている」とは、そういうことではないだろうか。道元禅師の身心脱落にはとても及ばないが、私も「いざというときには、坐禅中に死ねばよい」と心に決めて、お墓に入ったつもりで坐禅をしていたら、ふと私を超えた力に包まれている経験をしたことがある。その時の気持ちは、初恋にも似ていた。昨日までの世界は消え、すべてがまっさらに見えた。しかし、そのことを修行仲間に言っても、話は全く通じない。毎日同じ釜の飯を食い、同じ風呂釜に浸かっているのに…。
  ところで、先の道元禅師の言葉には続きがある。
  
  仏となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のためにあはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとうこころなく、ねがふこころなくて、心におもうことなく、うれうることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。
  
  「仏になるため、簡単な方法を教えよう。まず、悪いことをしないこと。生死に執着しないこと。生きとし生けるものを大事にすること。お世話になっている方に感謝し、自分より弱い立場の人を助けること。あれこれ欲しがらないこと。イライラ、クヨクヨしないこと。そういう人こそ仏と呼ぶ。それだけであり、それ以上でも以下でもない。」
  
  『正法眼蔵』の「生死」の巻の最後には、道元禅師は成仏の要を子供でも分かるような言葉で説明している。実践できるかどうかはともかく、意味を理解することは決して難しくない。しかし、この言葉を最初に読んだとき、私は「え?」と思った。「すでに結論が出ていたのではないか? 身も心も手放して、仏の家に中に投げ入れてしまえば、それで話が終わったのでは?」
  身心脱落した者には、なぜ「悪いことをしない」という子供でも分かるようなことを言う必要はあるのだろうか。「感謝」や「思いやり」の大切さ、ましてや「イライラクヨクヨしないこと」など分からない人はいないだろう。ところが、身心脱落したつもりの人でも、いつかはまた腹が立つことがある。「今ここ、ありのままの自分」で落ち着いていたはずなのに、いつの間にか「あれが欲しい、これが嫌い」という思いも再び襲撃してくる。生きとし生けるものどころか、日ごろ一緒に修行している仲間たちですら、思うように大事にし、常に感謝と思いやりの気持ちで接することは難しいものだ。
  近頃、私に一つの気づきがあった。「なんだ、あの身心脱落という体験も、しょせんは仏とのファーストキスでしかない。仏との初恋の後には、一切衆生との結婚生活がつづく。時にはぶつかり合い、時にはにらみ合いながら、切磋琢磨して励みあう。自分を手放すのは一回だけの体験ではなく、毎日の実践でなければならない。」
  恋しているかどうかは、本人しかわからない。本当に愛しているかどうかは、相手が一番よくわかる。修行の成果は、自分よりも配偶者と子供にはっきりと見えている。ああ、彼らの審判が怖い…。

ネルケ無方

安泰寺住職。1968 年のドイツに生まれ、16 才のときに高校のサークルで坐禅と出合う。将来禅僧になることを夢見て、大学で哲学と日本学を専攻、在学中に1年間日本に留学する。安泰寺に上山し、半年間の修行体験を得る。帰国後に大学を修士課程で卒業し、再び安泰寺に入門。八代目の住職、宮浦信雄老師の弟子となる。33才のときに、独立した禅道場を開くために下山。
大阪城公園で「流転会」と称してホームレス雲水生活を開始する。
その6か月後の2002 年2月、師匠の訃報を聞き、テントをたたんで山に戻る。現在は、住職として、雲水と年間100人を超える国内外の参禅者を指導。 大阪で知り合った妻と結婚をし、3人の子供の父親でもある。

ネルケ無方先生