幼い子供はいつも今ここに生きています。この瞬間を満喫し、明日以降のことを知りません。人の目を気にせず、大きな声ではしゃいだり、走り回ったり、服を脱いだりして、親を困らせてしまうこともよくあります。恥ずかしいという概念を持たないのも子供です。
聖書の最初に脱楽園という話があります。アダムとイブが知恵の樹の実を食べてしまったことから始まる、あの有名なエピソードです。そのことは神さまにすぐばれました。自分の裸を恥じらい、イチジクの葉で隠していたからです。それが原因でアダムとイブは楽園から追放され、苦しみの多い生活を強いられようになったというわけです。つまり、二人は大人になったのです。さて、あの知恵の樹や楽園は何を指しているのでしょうか。あの楽園にふたたび戻ることは、はたして可能でしょうか。
禅僧の私が聖書の『創世記』を読むと、楽園が「今ここ」、その知恵の樹が私たちの「考えるアタマ」を指しているとしか思えません。つまり、「僕」や「私」、「昨日」と「今日」と「明日」という言葉が正しく使えるまでは誰も楽園の中に生きているのではないでしょうか。大人になるためには善悪を区別し、自他を区別し、現在と未来を区別しなければなりません。気がついたら、わたしに与えられた唯一の「今日」が、一年間の365分の一に短縮されてしまいました。このわたしはいつの間にか、クラスの中の30分の一の存在になってしまい、やがて人類の70億分の一とちっぽけな存在にランクダウンされます。
そうして、試験のために勉強する真面目な中高生、そして将来のためにせっせと働く社会人に成長します。気づけば、楽園が茨だらけになったのではありませんか!
いつも今ここに遊んでいた子供の純真がどこへ消えたのでしょうか?
聖書の中で、イエスは「神の国」の在り処を聞かれ、こう答えています。
「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17-20/21)。
「神の国」をよそで探してしまうからこそ、足元の楽園を見失ってしまうのです。現実問題として大人の社会の中で生き延びるためには、否応なく「人生ゲーム」に参加しなければなりません。しかし、ゲームの参加資格を取得し、ポイントを稼ぐことで見失うことがあまりにも大きすぎませんか?
そうです、わたしが今ここ生きているいのちそのものです。ややもすると仏教の世界でも生死と涅槃を区別し、二つに分かれる以前のいのちを見えなくしてしまいます。迷いと悟りをまるで対局の概念のように使うことこそ、私たちの迷いの表れではないでしょうか?
大人のゲームに参加しながら、もう少し余裕のある遊び方はできないのか?
子供のあの頃の好奇心と驚きを取り戻すことはできないのか?
生まれてこの方、一歩もその外へ出ていない「今ここ」のことを、禅では「本来の面目」「無位の真人」などと言い自分自身の生活に引き付けて問題にします。大乗仏教でも「迷悟一如(迷いと悟りが一つ)」「生死即涅槃(この生死がそのまま涅槃に他ならない)」「一切衆生悉有仏性(生きとし生けるものが仏性を備えていること)」と念を押しているのは、そのためです。仏教が説く智慧は知識や分別心ではありません。ゲームがスタートする前、つまり物事が二つに分かれる以前の眺めを取り戻すことこそ智慧です。
今日という一日において、私という一人において、現に与えられているこの天地いっぱいのいのちをいかに生かすか?
このいのちに問われつつ、また感謝しつつ、今日も生きてゆきたいと願っております。
安泰寺前住職。1968 年のドイツに生まれ、16 才のときに高校のサークルで坐禅と出合う。将来禅僧になることを夢見て、大学で哲学と日本学を専攻、在学中に1年間日本に留学する。安泰寺に上山し、半年間の修行体験を得る。帰国後に大学を修士課程で卒業し、再び安泰寺に入門。八代目の住職、宮浦信雄老師の弟子となる。33才のときに、独立した禅道場を開くために下山。
2001年、大阪城公園で「流転会」と称してホームレス雲水生活を開始するが、6ヶ月後に師匠の訃報を聞き、テントをたたんで山に戻って安泰寺の九代目住職となる。 2020年に引退し、今は大阪を拠点に坐禅会や講演活動を行なっている。