『50才の春』
私は今年で50才になった。若いころ、自分がそのうち50才になるだろうという事だけはなんとなくわかっていたが、50才の自分など、想像だにしなかった。なにせよ、当時は私にとって「50才のおっさん」ほど関わりたくない存在はなかったからである。私が20才のころ、父がちょうど50才だったせいなのだろうか。ああいうふうにだけには、絶対になりたくない、と思ったものだ。その一番なりたくない存在に、とうとうなってしまった。反抗期の子供の目から見れば、今の私はうっとうしい親父の見本である。あぁ、50才の春にあたり様ざまな思いが頭に浮かぶ。
年年歳歳、花相似たり
歳歳年年、人同じからず
春は花…。梅、桃、そして桜で盛大なフィナーレ。安泰寺の庭ではプルーンやさくらんぼの木も毎年、私たちの目を楽しませてくれている。木の下でキャンプファイヤーを焚き、般若湯を味わいながら花見をする。ついこの間まで、あんなに可愛いかった子供たちはもはや大人顔まけに、バーベキューの肉を貪り食っている。お寺を去ってしまったあの人は、今ごろどこでどうしているのだろう。あいつも今ごろ、どこかで花を見ながら思い出にふけっているのかもしれない。
…とまあ、花の立場からしてみればこんなことはどうでもよい話である。なぜなら、一輪の花にとってその春は最初で最後の春なのだ。各々の花がその場で、二度とない命を咲かせている。それなのに、人間は酒を片手に「今年の桜は…」と、毎年同じ台詞を吐いているではないか。私が花ならば、人間どもに怒ってしまいそうなものだ。「年々同じ花だと? はぁ? けしからん! お前らが鈍感なだけだろ。今ここ、目をまっさらにして、俺らの生きざまをはっきり見てみろよ!」
さて、私にとって、この春は50回目の春である。異性に振り向いてもらえなかった15才の春とも、禅寺に入門したばかりの25才の春とも意味の違う春だ。ましてや、ドイツの古い教会の裏で友達と遊んでいた5才の春とは比べようがないほど違う。思えばあの頃の一年は長かった。しかし今の一年はあまりにも早すぎる。まるで昔の一日のようだ。このまま早回しが進めば、残りの人生はあっという間に終わってしまいそうである。おや、そういう私も酔っぱらいのおっさんと同じことを言うようになってしまったなぁ…。
刻々と進む腕時計の針に目を移して、ふと思う。「あの針の動きが昔より早くなったという感じがしないのは何故だろう」―それは、今ここ、現に起こっている動きだからだろうか。考えてみれば、だんだん加速しているように見える時間は、今ここを注視すると、いつもと変わらないリズムで流れている。吐く息も、吸う息も、子供の頃とほとんど変わらないのではないだろうか。息を吐いて、吸う。そのペースこそ変わらないが、命はまっさらな一息一息で絶えず再生されている。
つまりは春の花も、その花を眺めている人間も、毎年違うのだ。毎年どころか、毎日あたらしい命を生きている。私たちはその当たり前のことに気づかずに毎日愚痴をこぼし、過ごしているだけである。
日本人の平均寿命は、日数に換算すれば三万日以上だ。その三万日の内、特別な一日がある。それは自分が生まれた日でも、死にゆく日でもない。ましてや大好きな彼女と結婚した日など、その特別な一日と比べれば色あせてしまう。それではその特別な一日とはいつなのだろうか? そう、それはほかでもなく今日という一日なのだ。私は50才にして、今初めて「この日」に出会う。
同じ花は二度と咲かない。同じ一日は二度とやってこない。最初で最後の「この春」、私は比類のない「この花」を見る。この瞬間、私は二度と体験することのない命を生きているのだ。50才の春、そして今日というこの一日を大切に噛みしめたいと、願わずにはいられない。
安泰寺住職。1968 年のドイツに生まれ、16 才のときに高校のサークルで坐禅と出合う。将来禅僧になることを夢見て、大学で哲学と日本学を専攻、在学中に1年間日本に留学する。安泰寺に上山し、半年間の修行体験を得る。帰国後に大学を修士課程で卒業し、再び安泰寺に入門。八代目の住職、宮浦信雄老師の弟子となる。33才のときに、独立した禅道場を開くために下山。
大阪城公園で「流転会」と称してホームレス雲水生活を開始する。
その6か月後の2002 年2月、師匠の訃報を聞き、テントをたたんで山に戻る。現在は、住職として、雲水と年間100人を超える国内外の参禅者を指導。
大阪で知り合った妻と結婚をし、3人の子供の父親でもある。