花山勝友
(はなやま しょうゆう)
浄土真宗本願寺派
花山勝友(はなやま しょうゆう、1931年 - 1995年)浄土真宗本願寺派僧侶。東京大学文学部印度哲学科卒業。文学博士(東京大学)。ニューヨーク州立大学・シートン=ホール大学客員教授・武蔵野女子大学教授、副学長。仏教伝道協会研究室主任。
いつかは死ぬという事実は、だれでもが知っているはずなのに、そのことが、なかなか自分のこととしては受け取れないようです。
したがって蓮如上人(れんにょしょうにん)(一四九九年寂)が、
「一生過ぎやすし。今に至りてかたれか百年の形体をたもつべきや。
我やさき、人やさき、今日ともしらず、明日ともしらず」
(『御文章』)
と警告してくれても、心の中では、
“自分はまだまだ若いんだよ。平均寿命までは、まだ相当の年数があるから、そんなにあわてることはあるまい”
と考えてそれこそ、
“人やさき、我はあと、まだまだあと、まだ当分は大丈夫。今日ではないし、きっと明日ではあるまい”
と信じ込んでしまっているのが、私たち平凡な人間なのでしょう。
したがって、せっかく一休禅師(いっきゅうぜんじ)(一四八一年寂)が、
元日は冥途(めいど)の旅の一里塚
めでたくもあり めでたくもなし
と和歌に残してくれても、
“冗談じゃないよ。正月はやはり目出たいんで”みんなで祝えばよいだろう。なにも正月そうそうから、今年は死ぬんじゃないだろうか、などと考えられるか”
と悪たれをついても、自分はまだ大丈夫と考えて、いつまでたっても真剣に生きようという気持ちは起きないのです。
考えてみますと、だれだって好きで老いるわけではないでしょう。気がついてみると、老人になっていた、というのがほんとうのところではないでしょうか。
若い頃丹羽文雄(にわふみお)の『厭がらせの年齢』という小説を読んで、
“いやだいやだ。こんなにまわりからきらわれるような老人になるくらいなら、まだ、人から惜しまれている頃に死んだほうがよっぽどましだよ”
と考えていたことを思い出します。
ところが、自分がその年齢に近づいてきたことに気がつくようになると、
年より嫌うな(笑うな)行く道じゃ
などという言葉を持ち出してきて、なんとか年老いて嫌われたりするのは自分だけではないのだ、ということを強調している自分自身を発見して、自己嫌悪におちいっているのが正直なところです。
若い頃は、まだまだ先が長いと考え、働き盛りになると、人生の意味などについて考えているヒマがあるか、とうそぶき、そして、ほんとうに年取ったときには、過去を回想して、いろいろと後悔しているのが私たちでしょう。
一人の人生は、けっして二度とはないのですし、一度過ぎ去ってしまった時間は、永久に戻ってこないのですから、最も大切なことは、現在いきているこの“一瞬”にあるのだ、ということを忘れてはならないでしょう。
それでは、いったいなにについて“目覚めよ”というのでしょうか。
ここに挙げた文章は、『法句経(ほっくきょう)』一五七偈ですから、当然悟りについて目覚めよ、ということなのです。
悟りについて目覚めよ、ということは、別の言葉でいいますと、人間として生きている意味を問いなさい、ということでしょう。
自分はなんのために人間としてこの世に生まれたのか、そして、なにを目的として生きることが人生を意義あらしめることになるのか、ということを、常に考えておかないと、ただ年月を無駄に過ごしてしまってハッと気がついたときには、死が目前にせまって、ひたすら後悔をする、ということになってしまうでしょう。
もっとも、人として生きるためには、生きるための最低条件だけは、満たさなければなりませんから、いわゆる、
食うために働く
という言葉で象徴されるような、さまざまな世俗の行為もしなければなりません。したがって、いつもいつも、
“人生とはなんぞや?”
“人間として生きている意味はいずこにありや?”
などと考えているわけにもいかないのが現実なのです。
だからといって、食うためにのみ一生を過ごしてしまっては、他の動物と少しも変わらないことになってしまいます。
そこで、冒頭の句にありますように、せめて一度ずつでもよいから、青年の頃、壮年の頃、そして、老境に入った頃に、こういった問題について、真剣に考えてみなさい、ということになるのです。
まだ若いから、などといっていますと、いつの間にか老人になってあわてることになりますし、もう老人だから遅いよ、などといっては、なんのために生きてきたのかわからなくなってしまうでしょう。
人生のそれぞれの時期に“私”の生き方についてじっくりと反省してみる時間を持ってみようではありませんか。