禅僧の言葉 Vol.05 盤珪永琢(ばんけいようたく)<br />「皆親の産み付けてたもったは仏心ひとつでござる。」

Vol.05 盤珪永琢(ばんけいようたく)
「皆親の産み付けてたもったは仏心ひとつでござる。」

  日に日に冬の到来を肌で感じる時節になりました。美しいイルミネーションに飾られた沿道のショーウインドウには、素敵な商品が溢れんばかりに並べられています。その前で人々は、恋人の幸せな笑顔を思い浮かべながらも、悩ましげに思案をめぐらしているようです。
  さて、私たち禅宗の十二月は、特別な月になります。それは、苦行を断念され、菩提樹の下で坐禅を組まれたお釈迦様が、十二月八日の明けの明星をご覧になって悟りをひらかれ、人生の苦しみから逃れられた「成道(じょうどう)」二五〇〇年たった今日でも禅の道場では、「臘八大摂心(ろうはつだいぜっしん)」といって一日から八日の早朝までを一日とし、一度も横になることなく坐禅三昧の修行が継承されているのです。
  その十二月に取り上げるのは盤珪永琢禅師(一六二二~一六九三)です。盤珪禅師は、現在の兵庫県姫路市に生まれ、命がけの厳しい修行に身を投じられ、ついに禅の悟りに到られます。その後は、その生涯をかけて教化活動に邁進されるのです。中国の言葉である漢語を使わず、誰もが理解できる平易な日本語を用い、そのうえ相対して、分かり易く自分の口で一般民衆に至るまで法を説かれました。武士や公家だけではなく、寺に入りきれないほどの聴衆が集まったといいます。その結果、中国より伝来された禅が、盤珪禅師によってはじめて日本独自の禅として再誕され、日本臨済宗に新しい息吹を吹き込んだのです。
  盤珪禅師の禅の内容は、次の言葉に集約されています。
「皆親の産み付けてたもったは仏心ひとつでござる。余のものは一つも産み付けはしませぬ」
  私たちが親から産み付けられたものは、「仏心」ただ一つ。他のものは何一つとしない。たとえば、鏡は前にある物を映そうと思わなくても、そのまま物を映します。その前の物が取り除かれれば、もちろん何も鏡には映りません。盤珪禅師は、この鏡のような心こそ「仏心」であるというのです。このように、どんなにつらいことも、楽しいことも、過ぎてしまえば跡形も残らない。ただ私たちに具わっているのは「仏心」ただ一つと説かれるのです。
  では、この「仏心」とはどんな心なのでしょうか。ある老師様は次の話で譬えられていました。それは、オー・ヘンリー作の『賢者のおくりもの』という話です。
  ある貧しいカップルがお互いに贈るクリスマスのプレゼントに悩んでいました。彼の方は、彼女の長く綺麗な髪に似合うようにと、宝石が散りばめられたべっこうの髪飾りを買うために、祖父から受け継いだ貴重な金時計を売ってしまいます。一方の彼女の方は、そんなこととは知らずに、自慢の髪の毛を切って売り払い、彼の金時計に見合うべく高価なプラチナの時計鎖を手に入れるのです。お互いに相手のことを想って、大事なものを手放してしまで、相手にプレゼントを用意するのです。
  ご存じの方もたくさんいらっしゃるでしょう。この二人の想いこそ、盤珪禅師がおっしゃる「仏心」に他ならないのです。お金で買えるどんな高価なものよりも、贈り物を考えて、相手のことを思いやっているこの時間こそ、何より貴いプレゼントなのです。相手を思いやる心、自分の幸せよりも相手の幸せを願う心。これこそ、わたしたちが両親から受け継いだただ一つの「仏心」なのです。
  そして、この心さえしっかり自覚していれば、人生のすべてがととのっていく。これが盤珪禅師の教えになるのです。
  また、盤珪禅師は、自身の永年にわたる生死をかけた厳しい禅修行を「無駄骨を折った」とあっさりと否定し、そんなものは一切不要であると言い切られるのです。ありのままの自分でいい。なぜなら、「仏心」は生まれながらに私たちに具わっているもので、けっして生まれるものでも、死んでなくなるものでもない。このことに私たちが気付きさえすれば、心安らかに人生を歩んでいけると背中を押してくださるのです。
  しかし、盤珪禅師のこの教えの系譜は、残念ながら江戸時代に途絶えてしまいます。なぜなら、「ありのまま」という言葉の理解を間違ってしまうと、何もしなくていいのだと安易な道へと流されてしまうからです。直接のお弟子さんたちの世代までは何とか受け継がれていたのですが、その次の世代ともなると、白隠禅師から痛烈に批判されるまでに到ってしまうのです。
  おそらく盤珪禅師もそのことは、百も承知であったはずだと私は思うのです。それでは何故そのようなことを説き続けたのでしょうか。
  無理をすることは必要ではない。ありのままでいい。できることなら皆には、厳しく辛い修行をすることなく気付いて欲しい。誰もが幸せに生きて欲しい。ここに私は、宗教家・盤珪禅師の深甚たる慈悲の心とも言うべき「願い」を感じずにはいられないのです。
  『賢者のおくりもの』の二人のように、大切なものを手放してみないと気が付かないものかもしれません。けれども、もし勇気をもって手放すことができれば、わたしたちはきっと生まれ持った「仏心」に気付くことができるはずなのです。
  きっとそれこそが二五〇〇年前のお釈迦様が、菩提樹の下でうなずき取った心なのしょう。そしてその心を伝えるために「よっこいしょ」と腰を上げられた。これがまさに仏教の始まりなのです。
  この盤珪禅師の言葉を受け取った私たちが、自分自身の「仏心」と向き合うとき、私は思うのです。盤珪禅師の心は途絶えてなどいない、今ここに生きていると。

細川晋輔  臨済宗妙心寺派 龍雲寺 住職

1979年生まれ。東京都世田谷区・龍雲寺住職。松原泰道の孫。佛教大学卒業後、京都・妙心寺専門道場にて9年間禅修行。花園大学大学院修了。妙心寺派布教師。東京禅センター副センター長。NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』禅宗指導。朝日カルチャー新宿教室、早稲田大学エクステンションセンター中野校講師。著書『わたしの坐禅』(青幻舎)、『人生に信念はいらない』(新潮社)、『迷いが消える禅のひとこと』(サンマーク出版)ほか。

細川晋輔