日本仏教で一番多くの信者を誇るのは、浄土教そして禅です。一方は他力を救いの拠り所とし、一方は自力を強調していると言われています。阿弥陀如来の本願による極楽往生と、釈尊の実物見本にならい、自らの修行による悟りと解脱…同じ仏教と思えないほど、両者の間の溝が深い。しかし、道元禅師の説く修行は「ちからをもいれず、こころをもつひやさずして」「仏のかたよりおこなわれて」(『正法眼蔵』「生死」より)いることを考えると、坐禅を自力と決めつけるのに無理があると分かります。私も師匠から耳にタコができるほど言われました。
「お前が坐禅している間、どんなに頑張ってもだめだ。坐禅が坐禅しているところまでいかなければ」
またある日、師匠から二首の和歌を教えてもらいました。
冬草も 見えぬ雪野の しらさぎは おのが姿に 身をかくしけり
峯の色 谷のひびきも みなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と
どちらも道元禅師の作品です。シラサギが雪景色の中で自分の姿を消すように坐禅をするように、そう教えられた気がします。その時初めて、目の前の山の形や谷から響く音たちこそ仏の教えに他ならない。
道元禅師と同じ時代に生きていた親鸞聖人は晩年「自然法爾」という言葉を使い、ありのままの自然の中で阿弥陀仏のお姿を確認していたようです。
「无上仏とまふすは、かたちもなくまします。…かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とまふす、とぞききならひてさふらふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」(『末燈鈔』より)
仏には本来、形も名前もない。しかし、その形も名前もない様子を迷える私たちに知ってもらうためには、阿弥陀仏(や釈迦仏)のような具体的なお名前や形、また壮大な物語とともにこの世にあらわれている。しかし、その物語も最終的には、私たちに自然の様子を気づかせようとしているに過ぎない… そういうふうに読むと、道元禅師と親鸞聖人の間にはほとんど隔たりを感じなくなってしまいます。
如来の光に照らされてこそ、自らの迷いが浮き彫りにされる。この不思議なカラクリを端的に表現しているのが、浄土門でよく詠われ、禅宗でもたびたび耳にする次の俳句です。
松影の 暗きは月の 光かな
善人ですら救われるなら、悪人の往生はなおさら確実だという、親鸞聖人のあの有名な「悪人正機説」も、実は道元禅師の教えに通じます。
一軒パラドクシカルに見えて、その内実は自明ではないでしょうか。
「私はよい人だ。人よりも多く善行をし、困った人々を助け、お寺にもたくさんのお布施をした。私が救われなければ、誰が救われるというのだ?」
善人のおごりが往生を邪魔しているのです。「月の光」がその人の心にまだ十分差し込んでいないようです。悪人には、そのようなプライドが一切ありません。見えるのは「松影の暗き」のみ。
「申し訳ない! こんな私まで生かしてくれている命に『ありがとう』としか言えない」
悪人のこの思いの中にこそ、往生が現れているのではないでしょうか。
道元禅師は同じことを「迷い」と「悟り」という言葉で言い表しています。
「迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。…諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。 しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく」(『正法眼蔵』「現成公案」より)
自らの迷いを自覚するのが仏で、自分を「悟っている、良い人である」と勘違いするのが凡夫です。本当の仏は、決して自分のことを「仏」だと思っていません。だからこそ本物であり、本物の仏を実践実証しているのです。
安泰寺前住職。1968 年のドイツに生まれ、16 才のときに高校のサークルで坐禅と出合う。将来禅僧になることを夢見て、大学で哲学と日本学を専攻、在学中に1年間日本に留学する。安泰寺に上山し、半年間の修行体験を得る。帰国後に大学を修士課程で卒業し、再び安泰寺に入門。八代目の住職、宮浦信雄老師の弟子となる。33才のときに、独立した禅道場を開くために下山。
2001年、大阪城公園で「流転会」と称してホームレス雲水生活を開始するが、6ヶ月後に師匠の訃報を聞き、テントをたたんで山に戻って安泰寺の九代目住職となる。 2020年に引退し、今は大阪を拠点に坐禅会や講演活動を行なっている。