01.自身の歩んできた道を振り返る
私は北海道のお寺で留萌(るもい)というところで生まれました。父親は島根県の出身でございました。父が函館の別院に勤めていたときに、北海道留萌の永福寺というところに養子にきてくれといわれ入寺したのでございます。
その両親から、子どもは全部で9名生まれました。今、9名というと皆さん驚かれます。そのうち男性が5名で、女性が2名でした。長男は私の8つ上で次男は7つ上です。学年が1年しか違わないので、いわゆる小学校の時、卒業生を代表して長男が挨拶をして、在校生を代表して弟が挨拶をしたのだそうです。それをお寺の総代の方が見ていて、「ああ、永福寺には、いい若さんがおるんだな」ということで、父親に勉強するようにと助言したらしいのです。父親も「そうだな」ということで、男の子5人兄弟みんな、龍谷大学で学ばせていただきました。しかし、兄弟全員5人も、その頃の北海道から京都の龍谷大学へ出してくれたというのはありがたい事です。それほど父は、私どもを親鸞聖人の教えを奉じて、なんとかご報謝できたらなという方針で教育をしたそうであります。
長男は龍大におりましたが、予備士官学校受けるように言われて、嫌だと思ったけれども受けた。予備士官学校へ行って将校になって、ガダルカナルへ行って戦死いたしました。
次男は、昭和12年に卒業して、西本願寺に入りました。よくできた兄貴で、西本願寺に勤めておりましたら、長男が戦死したために本願寺を辞めて、永福寺を継いでくれました。それが次男です。
三男坊は、これも龍谷大学に在学中、昭和18年11月だったと思いますが、学徒動員で軍隊に入って将校になりました。国境に行きましたが軍隊は全滅。3番目の兄貴も戦死いたしました。その次の私が、男としては四男坊です。
次の弟は亡くなりましたが、5番目の弟が、これもまたご縁があって龍谷大学に残って、教授になり、本願寺派の勧学になっています(渡邊隆生氏)。こんな兄弟5人とも親鸞聖人の教えをお互いに伝道するために生まれてきたのだなということで、もう他の道へ進むことはなかったです。私はいろいろなご縁があって、今の北畠家に養子に参りました。
あの頃、各大学で戦時教学に参加した者は、各大学で追放令が出たのです。龍谷大学でも教授が11名追放されて、大学を去ったのです。そのうちに重い罪ではないということで、2~5年後に教授たちが帰ってくるわけですが、当時11名の教授がいなくなったために、後任者を探したわけです。そのときに築地本願寺にいた北畠教真(1904-1969)が、龍大が困っているだろうから、東京には学生はいっぱいいるけれども、教える真宗学者は少ない。第1回目には2年間という期限で、真宗学の教授1名と仏教学の教授1名の、計2名を築地本願寺で雇おうという形になって、京都から東京へ2名が派遣されました。第2回目として真宗学の学者が1名と将来のために助手クラスの研究者をほしいと言って、探した結果が私でございました。
築地では、本願寺の僧侶を養成する学院、中央仏教学院という夜間学校。それから月に1回、銀座の日本堂に講演ができるような施設がありましたので、ここで毎土曜日、築地本願寺が講師を招いて、講演会をやっておりました。そんな仕事をしていました。あと私自身の学びとしては丸2年間、東京大学へ毎週2回ずつ大学院で研究をさせていただきました。そのときの先生が、結城令聞先生(1902-1992)でありました。本来の師匠は西の唯識の大将、深浦正文先生(1889-1968)で、東の大将が結城令聞先生。
それで、2年間毎週2日ずつ東大に行っていました。日本仏教を担当しておられたのが、花山信勝先生(1898-1995)だったと思います。中国仏教を担当しておられたのが、結城先生でしたね。そこで勉強させていただいたおかげで、後に龍谷大学に帰ってもいいへ進むことができました。
唯識で学位論文を書きましたし、そういう方面の研究が自分は好きだったのでしょうね。当時、インド仏教の研究がかなり進んでおりましたが、私は中国仏教の研究をやろうと思ったのですが、結局、最終的には日本仏教の唯識を主に書いたわけでございます。
それまでは龍谷大学の研究分野としては、インド中心、中国中心、日本中心ということではなかったのです。倶舎、唯識、華厳、天台という、この4つが学問中心であったわけです。元々そういう分類だったのですが、戦後になってインド、中国、日本と分けられたのです。当時は、なかなか勉強ができませんでした。大学の運営をやらざるを得なかったような境遇です。
それから龍谷大学での勤めを終えて山形へ帰ろうと思いましたら、岐阜県の岐阜聖徳学園大学という西本願寺関係の大学です。5000名ぐらいの大学ですけれども。大学院もあり、大学あり、高校、中学もあります。ここで学長や理事長も少しやったりしておりました。
それから浄土真宗本願寺派の勧学です。本願寺には学問の階級、学階というのがあって、ここでは勧学が一番上。その次に司教、輔教と5つの学階があるのです。5つの段階があるのですが、最高の位が勧学です。浄土真宗本願寺派の勧学をさせていただいています。
02.浄土真宗について思うこと
―日本の法相唯識を研究され、浄土真宗のみ教えを大切になさっておられる軌跡をお教えいただきました。今、どのような「ことば」に支えられていらっしゃいますか?
日本の唯識をやっていて、その辺が一番面白いのではなかったのかなとは、頭に残っているのですけれども。
今日のインタビューに備えて、少しこの間中考えていたようなことがありましてね。日本語は非常に難しい言葉ですよね。要は、日本以外の国の方が日本語を勉強されるというのは、偉いものだなと僕は感心しております。こんな難しい言葉を使っているというのは、世界中をみてもめったにありません。
そもそもの話ですが、浄土真宗の教え。これは『大無量寿経』に基本があるのですが、とても粗末ですけれども、ご覧ください。右のほうに4つの文字があります。「光」「壽」「無」「量」。この4つの文字が浄土真宗の教えをよく表しているのではないかなと思っております。そして、左側のほうに2列書いておりますが、「光」を解剖してみると光明。光明というのは、仏教の智慧を表しています。普通は真理というような言い方をする。それは時間的な絶対価値を表現しているのではないだろうか。それは本質であり、無限であるというふうに分解をしてみました。
それから左側の列には壽命(じゅみょう)というのはお慈悲。そして常識的に言えば、真実と言ったほうが皆さん理解しやすいのではないかな。そういうのを頭で考えてみて、空間的な絶対価値。時間的な絶対価値に対して、空間的な絶対価値というふうに分類してみたら、わかるのではないだろうか。そして、本質に対応して作用に分けてみると、光明は本質であり、壽命というのは作用である。働きですね。そして「量」であるということは、無限であり、無辺であるというふうにこんな表をつくってみて、自分で今慶んでいるところです。誰かに頼まれたわけでもないのですが。今日こういう機会にこんなことを考えている男がいるのだというのを面白いのではないかなと思って、持参したようなことでございます。
なんとか皆さんにわかってもらえるように別な表現の方法でやったり、もう1つこれを別な書き方をしたいなと思って考えているところですが、なかなかもうこの歳になるとうまいアイディアが出てきませんね。
03.山内慶華財団
―山内慶華財団(2013年財団は解散)の理事長も歴任されました。苦学生への給付奨学金を助成してくださる、大変ありがたい財団でありました。今一度、山内慶華財団のことに関して、何か思い出されることはございますか。
初代理事長の顔写真がありますね。(『慶華-想い出の記-第10号 最終号』を眺めながら)北畠玄瀛(きたばたけ げんえい)は、私らのおおじいさんにあたるのです。大正13年~15年頃の写真とある。この頃、執行(しゅぎょう)ですか。東北教区の宗会議員か何かから出たのですかね。執行長というのは、戦後の総長の立場です。
いや、懐かしい。こういう財団がありました。だんだん忘れてしまいました。これも苦労しましたね。これも、ご本山のほうへ全部渡して。もう全部終わったようなものですね。日野大心先生などご尽力があったのです。
奨学生だった人に給付をして、財源が尽きて一度解散しそうになって再度やったのですが、なかなか困難な時代になって、結局、私に力がなかったために途中で全部、西本願寺のほうへ移して別の奨学金として出してもらうようにいたしました。こういうのは、なかなかできません。なんにも手当てが出るわけでもないしね。心意気がある人たちが集まって、同調し、同感して「そうだな」となった人たちが集まって、本当の利他行ですよね。なんにも見返りがあるわけじゃありません。出しっぱなしです。だけど、そのことに喜びを感じる人間がいるわけです。やはり学問をする者は経済的支援がないとできませんよね。財的裏づけがないと。
『慶華-想い出の記-第10号 最終号』
04.後学に向けて
―最後におうかがいしたいのは、今後の学生であったり、若手研究者、あとに続くものに対して何か期待であったりとか、メッセージがあればお話もらえませんでしょうか。
いや、そんな名言は出てきません。お恥ずかしい次第です。私は本当に恵まれた人生をいただいただけです。男の子5人がみんな父親の方針でしたが、龍谷大学で学ばせていただいた。それが、縁でずっと本願寺派の僧侶として成長してまいりました。いろいろなご縁に恵まれて、龍谷大学に残ることになりました。私は、実力以上に評価されてなんにも才のある男ではありませんけれども、いいご縁に恵まれて、今日にいたったということは、本当に幸せだなと思っております。こんな幸せはね、ほしいと思ったわけではないけれど、これも与えられたものです。いつの間にやら気がついたらそうであったなというようなことでございます。別になんにも今改めて名言はございません。本当に皆さんに信頼されて、その信頼に応えるように最善の力を振り絞るだけです。結果がどうあろうと、まず最善を尽くすということが、一番大事なことではないでしょうか。結果がどうあろうと。そのような生き方をしてまいりました。お恥ずかしいことですが。
インタビュー日:2023年2月8日
浄土真宗本願寺派 善行寺(山形県天童市)
文責:金澤豊(仏教伝道協会)