インド・サールナートの壁画で知られる仏画家・野生司香雪による釈迦の一代記
1962年愛知県生まれ。1993年に平等院住職に就任。現在、(独)国立文化財機構運営委員。(公財)美術院監事、(学)埼玉工業大学理事ほか。『よみがえりゆく平等院 新資料で再現する平安の美』(学習研究社)ほか著書多数。
【野生司香雪による解説】
印度に古来聖なる臥法(がほう)は右脇を下にして、横臥(おうが)し、両足を伸して重ぬ。是れ獅子王の姿態なりとあり、図はこの作法に則る。
結婚して20年、子宝に恵まれなかった摩耶夫人(まやぶにん)は、ある夜、白象が天から降(くだ)ってきて胎内に入る夢を見ました。子供を宿すということは、人間としての出発点ですし、人間のはからいを超えたものですから、その因縁の不思議さを象徴しているのです。
【野生司香雪による解説】
布髪の礼はアマラーバティ遺品と中央亜細亜発掘品によります。聖樹は因果経と普曜経によって、無憂樹となる。
里帰りの途中、ルンビニーの花園で休まれた摩耶夫人は、美しいアショーカの一枝を折りとろうとした瞬間、一人の王子を生みました。生まれたばかりの赤ちゃんが、将来にどんな可能性をも秘めていることを、“天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)”という言葉によって表現しているのです。
【野生司香雪による解説】
巍々(ぎぎ)たる加毗羅(かびら)城も深き眠りに落ちて夢の如く、又この城が抱く摩尼宝珠(まにほうしゅ)が忽然(こつぜん)として消えんとする大事も知らぬ気に、夜のとばりに包まれて淡く浮かんだ城廓(じょうかく)を背にして、白馬にまたがる太子は月光を全身に浴びて疾走するので。
太子出家の年令 修行本起経、瑞応本起経、因果経は19才、長阿含(ぢょうあごん)4、中阿含56、増一(ぞういつ)阿含37、大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)は、29才。
幼くして母を失い、王子としてのぜいたくな生活にも心からは喜べなかったシッダールタは、29才のある日白馬に乗り、一人の従者をつれ、人間として生きている本当の意味を探し求めるために、ひそかに城をぬけ出しました。
6年間のはげしい苦行の末、心身ともに疲れ切ったシッダールタは、一人の貧しい村娘の捧げる一椀の乳がゆを受けました。そして“過ぎたるは及ばざるが如し”という諺のように、極端に肉体を苦しめるだけが正しい道ではないことに気がつき、やがて“中道(ちゅうどう)”をさとられたのです。
『牧女の供養』は7枚の連作の中で最後に描き上げた作品。昭和34年7月までに完成したのは実はこの絵を除く6枚であった。制作途中に脳出血の為、『牧女の供養』の制作が遅れ、昭和36年7月に沼田惠範が制作を再度依頼し手がけたもの。そのため、『牧女の供養』には、画伯自身による構図の解説や大木氏による詩が付いていない。また翌年、画伯は脳出血に倒れ入院しており、実質、画伯最後の作品といえる。
【野生司香雪による解説】
うっそうとして天をおおう菩提樹下の金剛宝座に結跏趺坐(けっかふざ)した太子を、魔王波旬【はじゅん/パーピー】は雲の如き群魔と共に之れを囲み、魔王の命に従いて、挙動暇なき魔軍の怪火虹の如く、天に沖して大音響と共に天地震動す。宝座に肉迫せる染愛の魔女は太子を妖気に包まんと焦慮し、又一魔女は施す術も尽きて、苦悩するを魔女の能悦は励ます如く、切々と私語するなど愛欲無限の秘術をほしいままに、これに応えて、武力に訴えて粉砕せんとする阿修羅の叫びを具象せるもの。
後に菩提樹とよばれるようになった一本の大木の下で静かに瞑想に入ったシッダールタは、さまざまな悪魔の誘惑や、自分の心の中の欲望に打ち克って、とうとう真実の道を発見して仏陀(ぶっだ)となられたのです。数多くの苦難を打ち破って、ブッダガヤとよばれる場所で仏となられたその姿には、私たちの心にひびく何ものかがあります。
【野生司香雪による解説】
五比丘を仙人住処に訪ねて、仏は転法輪の第一歩を印した。即ち、樹下の石上に軟草を敷き、大衣にて覆い、そうして宝座を作り、世尊をここに迎えて、五比丘は各々六方を避けて囲繞した法筵(ほうえん)は、正に三宝完成を告げる厳色として、この法筵を真善美の理念から見るならば、苦行によってのみ修道の結果を求めんとして、宛ら枯木寒厳の羅漢と三十二大人相(だいにんそう)を円満具足し、宝座して目を鼻頭に注ぎ、揺がざる焰の如き好相は人天の曽て見ざる処である。
仏陀となったシッダールタは、しばらくさとりの内容を心で味わわれた後、サールナートという近くの村で修行していた、もとの同行者(どうぎょうしゃ)五人に、はじめて自分の自覚した教えを説かれたのです。その後45年間にわたる説法の、それは最初だったのです。相手の立場を十分考慮した上で説かれたその教えは、どんな人にも安らぎを与えたのです。
【野生司香雪による解説】
大光明の中に、右脇を下に、北首西面、並足して安臥せられた法体は阿娑荼(あしゃだ)月の満月に照らされて居る。玉体の上半身には羅漢果を証した上足の弟子達近側して大般涅槃を見護って居る。大方の羅漢は無常観に徹して取り乱したる態は見えざるも、独り阿難は流涕滂沱たる処が注目される。これに引きかえ、下半身に随順する在俗の信者は王侯といわず、田野の男女といわず、悲泣号哭して、長恨する千姿万態である。
特に注目すべき涅槃像の仏眼の恬晴であることである。中国と日本の涅槃像は悉く入寂閉目の相であるが、印度の涅槃地に現存する代表的涅槃像は活眼そのものである。案ずるに、涅槃義の不滅性を造型芸術として具象するに、仏の心眼を全開の活眼をもって不滅の仏生を表現化せしは、当時芸術家の達識というべきか。
生まれたものは必ず死ななければならない――45年間もの長い間、数多くの人びとに教えを説き続けてこられた釈尊も、自ら説いた“諸行無常” の教えの通り、たくさんの弟子や信者の涙の中に、クシナガラで80歳の生涯をとじられました。
昭和30(1955) 年に沼田惠範が、当時の武蔵野女子短期大学学長であった鷹谷俊之を通じて野生司香雪にしました。
当初は、複製を作成しカレンダーとして配布することも視野に入れていたため、12 枚の構成を予定していましたが、画伯は製作途中で脳出血を患ってしまいました。
しかしその治療とリハビリを繰り返しながらも製作を続けられ、昭和34(1959) 年7 月ついに7 枚の連作絵画として完成しました。
できあがった絵伝は、画伯の入念な校正を経て複製が作られました。その販売にあたっては北原白秋に師事し抒情詩人として文壇で著名であった大木惇夫の詩が添えられました。
この複製された絵伝は、購入者である会社や学校、、一般家庭などに飾られることによって、人びとと仏教との縁を結ぶ仲立ちとなり、仏教的情操を育成して争いと憎しみのない世の中の実現を目指そうとしたものです。
絵伝を依頼した沼田惠範は、その後、昭和40(1965) 年に仏教の教えを広く世界に広めるため仏教伝道協会を設立したのです。
完成から60年を経た2018年、最先端のデジタル印刷技術と画像処理技術を駆使して、新しい複製画を制作。京都の平等院ミュージアム鳳翔館において、初めて「釈尊絵伝」原画7枚を公開しました。
またより多くの方に親しんでいただくためにジグソーパズルも制作。複製画、ジグソーパズルとも寺院・一般の方へ向けて販売をスタートしました。
明治18(1885)年香川県生まれ。東京芸術大学日本画科卒業。在学中より仏教美術を専攻。仏教美術研究のためインドに渡り、あまねく仏教史跡を訪れる。アジャンターの壁画模写、初転法輪寺(インド・ベナレス郊外サールナート)にインド政府の依頼により釈尊一代の壁画を揮毫。