発願者沼田惠範

仏教伝道協会 発願者 沼田惠範について

沼田惠範
発願者 沼田惠範

沼田惠範は1897(明治30)年4月12日 広島県加茂郡東志和村(現:東広島市志和町)にある浄土真宗本願寺派浄蓮寺の三男として生まれました。常に仏教が身近にある環境に育ったおかげで、小学校入学前には大抵のお経を暗唱できていたと言われています。
19歳で留学のため渡米。貧困と過酷な労働に耐えつつ学問を修得していましたが、無理がたたり当時不治の病とされた結核に感染してしまいます。絶望の淵にあった惠範を救ったのが両親から送られた親鸞聖人のことばでした。
「一人居て喜ばば、二人と思え、
二人居て喜ばば、三人と思え、
その一人は親鸞なり」
(一人で居てうれしく思うならば、そのときは二人いると思いなさい。二人で居てうれしく思うならば、そのときは三人で居ると思いなさい。そのうちの一人は親鸞です)

仏教伝道センタービル新築工事上棟式(1971年)
仏教伝道センタービル新築工事上棟式(1971年)

この言葉によって惠範は孤独から脱し、次第に病状も快方に向かいました。「仏教によって生かされた」という思いを強くした惠範は、大学院修了後、東洋文化を紹介することが西欧の人びとに仏教文化を伝えることにつながると考え、雑誌「ザ・パシフィック・ワールド」を米国で創刊しました。しかしながら資金難によりわずか4年で廃刊となってしまいます。経済的な基盤がなければ何もできないと思い知らされた惠範は帰国後に事業を興し、それを基盤とした仏教伝道を構想します。

1934(昭和9)年に三豊製作所(現・株式会社ミツトヨ)の原型となる研究所を設立し、マイクロメータの開発に着手します。幾多の困難を乗りこえ経営が安定してきた1965(昭和40)年12月、念願だった仏教伝道協会を設立。「宗派の枠を越えた仏教伝道を通じて人類平和社会を実現したい」という願いのもとさまざまな事業を展開してきました。
発願者沼田惠範の思いは、今日まで脈々と受け継がれ発展しています。


一筋の道 " 昭和50(1975)年浅草寺仏教文化講座講演録"

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一筋の道 親鸞聖人とともに

沼田惠範

私は本当に幸せ者でございます。自分でいうのもなにですが、まれにみる恵まれた者と、いつも感謝して毎日を過ごさせて戴いております。
早朝、私はまだ小学校にも上がらない幼い孫といっしょに、仏前で読経をいたします。そして読経がすみますとこう唱えるのです。
「われ今さいわいに、仏祖の加護と衆生の恩恵とにより、安らけき眠りよりさめて、心豊かに、力新たに加わる。願わくば今より、この心身を捧げて、己が業にいそしみ、誓って四恩に報いたてまつらん」
これは昔から真宗(浄土真宗)でよく唱える言葉ですが、これを腹の底から力を出して大きな声で唱えますと、どんなに今日は辛いな、たいぎだなと思っても、自己催眠とでもいうのでしょうか、今日もおおいにがんばらなくてはいけない、という気持ちになって、朝から動き回り始めるのです。
私は明治30(1897)年の生まれですから、もう78歳〈平成6(1994)年5月逝去・享年97〉になります。周りの人びとは、「もう80なんだから、隠居して悠々自適の生活を送ったらどうだ」と勧めてくれます。たしかにそういう生き方もあります。ひとつの生き方として、それなりに意義もありましょう。しかし、私にはまだなすべきことがあまりに多いのです。
「あすありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
という言葉もあるように、私は明日どころか、今晩にも倒れるかもしれません。しかしあと何年の命かはわかりませんが、命のある限り、青年時代から抱いてきたひとつの志を実現するためには、まだまだがんばらなくてはならないのです。

私の生涯の少なからぬ時間とエネルギーは、昭和9(1934)年に着手した三豊製作所(現・株式会社ミツトヨ)という、マイクロメータづくりの会社の経営に費されました。しかし、極端にいえば、この事業経営は、いわば私の初志を貫徹するための手段であり、目的は別のところにあったのです。青年時代からの志、それは、私自身が限りない多くの恩恵をうけた、このすばらしい仏教を、日本の人のみならず、全世界の人に、一人でも多くの人に理解してもらいたいということなのです。私の事業経営は、この秘かな願いを、誰にも迷惑をかけずになしとげるための基礎づくりだったのです。波瀾万丈ではありましたが、お蔭さまである程度の基礎も固まり、少しずつ目標を実現するべく努力してまいりましたが、まだまだ、いわばこれからが私の本番です。
ここ、十数年の間、仏教伝道協会を通じて、私は「仏教聖典」を全世界のホテルに、30万冊余〈平成28(2016)年3月現在886万冊〉、無償で配布させて戴きました。しかし、全世界のホテルの部屋数を思いますと、これはまだまだ序の口です。それにこの聖典の配布も、仏教を世界の人びとに伝道するための数多くの方法のうちのひとつの手段でしかありません。なすべきことは、山のようにあるのです。

それにしても、なぜ私がこのような志を抱くにいたったのか、不思議に思われる方もいらっしゃいましょう。それには、私の青年時代の不思議な体験をお話ししなくてはなりません。実は私は、広島の山の中の、真宗の寺の三男坊に生まれました。ご存知のように、広島は安芸門徒といいまして、非常に浄土真宗の盛んなところで、私の村あたり、真宗以外の家は一軒もないというくらいのところでした。ですから私も三男坊とはいえ、父母、祖父母、周りのみんなが、将来はお坊さまになれといい、私もまたそのつもりでおりました。特に私の母は信仰の篤い人で、寺で生まれてお仏飯によって育ててもらったんだから、仏恩に感謝し、仏さまに仕えるのが当然の義務だ、というように私を教え育ててくれたのです。
村の小学校を出て、京都の本願寺立の中学校へ入りました。その後、もちろん私としては上の学校へ進みたかったのですが、なにしろ貧乏寺のことですし、兄弟も多く、とてもその資力はない。私もそのへんの事情はよくわかっておりましたから、中学まで出してもらったら、あとは東京へ出て自活しながら学校を出たいと考えておりました。そうしましたら中学卒業と同時に、折よくアメリカヘ行くチャンスを与えられたのです。
アメリカヘ渡ろう、アメリカで、自力で、独力で勉強しよう。こう考えて私はアメリカヘ渡りました。当時はまだ飛行機はありません。船で太平洋を渡るのに、17日かかりました。当時は大変に対日感情の悪い時で、日本人はジャップと蔑まれ、随分といじめられておりました。
私はロサンゼルスにいき、映画の都ハリウッドのある家庭に、いわゆるスクールボーイとして入りました。朝は学校へ行く前に料理をつくり、お皿などの後片付けが済んでやっと解放される。帰ってくると、すぐにまた食事の準備の手伝いとそして後片付け。それからやっと自由になって勉強ができる。土曜日、日曜日は一日家事に使われます。こういう生活をして、私、今でもはっきり覚えていますが、1週間2ドルの給料でした。それでもって、自分のあらゆる費用、食べるのと寝るということはそこにいるのでいいのですが、小遣い、衣服、本代等はすべてをそれで賄っていく。こういう生活を送っていたわけです。
こういう調子で、休みもなく、夜寝る時間もないくらいに働かなければならない生活が続いたものですから、無理が重なって、2年目に、とうとう私は体をこわしてしまいました。どうも調子が悪いので医者にいきましたら、「君、ちょっと胸が悪いようだね」とこういいます。これをきいた時は、もうなにか、谷底へ断崖絶壁からつき落されたような気がしたものです。今でこそ結核といっても、誰も驚きません。薬で簡単になおってしまうと思っていますが、当時はそうではありません。結核というと、死の宣告をうけたも同様だったのです。しかも海外です。帰ろうにも一銭の蓄えもなく、友達もいない。日本人のあまりいない異郷の地で、馬や牛のようなひどい生活をして、死んでしまっても、どこのだれかわからないのが死んでしまったと、どこかに捨てられるだけだろうと思うと、寂しいというか、情けないというか、本当に悲しい気持ちでした。
そういうみじめな状況にあった私を救ってくれたのが、実は親鸞聖人のお言葉だったのです。
「ひとり居て喜ばばふたりと思え ふたり居て喜ばば三人と思え その一人は親鸞なり」
小さい時から、母によくきかせてもらっていた言葉です。この言葉が、死の瀬戸際ともいうべき極限状況におかれて、ふと私の記憶に甦ってきたのです。
日本を出る時、私の母は真宗聖典とお数珠を、父は自分で「南無阿弥陀仏」と名号を書いて私にもたせてくれておりました。私が与えられていた部屋は、地下室で、うす暗く湿っぽいところでしたが、その壁にこの名号を掛け、仕事が終るとその前で、数珠をかけてお経を読む。これが私の新たな日課となり、そしてこれがただひとつの精神的支えとなりました。今、ひとり私がここで倒れても、けっして私はひとりぼっちではない、親鸞聖人だけはじっとこの私を見守っていてくださる。そう思うだけで私の心は慰められたのです。
不思議なことに、この新たな日課を続けているうちに、私の病気は段々とよくなっていったのです。今日、私は年に1回、健康ドックに入って定期検診をしますが、今でもその時の結核の痕跡が残っているとお医者さんはいいます。この言葉によって支えられなかったら、私はあの場で倒れ、確かに死んでしまっていたにちがいないのです。

こうして健康をとり戻した私は、その後の厳しい毎日を無事のりこえ、当初の10年計画より1年も早く、29歳で高校から大学まで卒業することができたのです。さて、卒業する時、私は考えました。真宗の教えをきかせてもらっていなかったら、私はまず確実に命はなかったであろう、いや、かりに死なないにしても、予定より早く学校を出るなんてことは到底不可能であったろうし、生きていたとしても、ほかの道へ進んでいたに違いない。これは、本当に仏さまのおかげだ、ご恩返しになにか社会のため、世のために役立つことをしたい、私は真剣にこう考えたのです。
その時私が思いついたのが、アメリカで長い間世話になったが、物質的にはなにも恩返しはできない。しかし、そのかわりに、アメリカにはない、仏教というすばらしい精神文化をお返しとして教えることができるのではなかろうか、と、こういうことだったのです。いや、10年間近く養ってもらったご恩返しに、これ以上のものはない、こうも私は考えました。しかし、先にも申しましたように、当時は排日感情の盛んなときですし、仏教というものを表面に出したのでは、みむきもしてくれません。
そこで最初は東洋文化一般の紹介ということで、幅広い紹介をしようと考えまして、スタンフォード大学、カリフォルニア大学の学生と一緒に、私がリーダーになって、『ザ・パシフィック・ワールド』という英文の雑誌を出し始めました。東洋文化はなにかというと、茶にしても、剣道にしても、すべてが仏教の影響をうけております。東洋文化をつたえることは、間接的に仏教を伝道することになる。私はこう考えたわけです。この雑誌を、2カ月に1回、約4000部刷って、アメリカの各大学や図書館に寄贈することにしました。大正14(1925)年 の6月号から創刊しました。
この雑誌は、各大学の先生や、銀行家などが色々とバックアップしてくれて、2年間続けましたが、残念なことに経済的にゆきづまってしまいました。ほとんどが寄贈ですし、そんなに売れる本ではありません。しかし、それでもあきらめがたかった私は、いっしょにやっていた学生と日本に帰ってきて、当時の財界の大御所の渋沢栄一さんや、本願寺のえらい人にお会いして相談いたしましたら、多額の寄付を戴き、励まして戴きました。また、ちょうどその頃、まったく偶然に、東大の高楠順次郎先生も、『ザ・ヤング・イースト』という英文の仏教伝道の雑誌を出しておられましたのが、やはり経済的にゆきづまって、廃刊に追いこまれておりました。そこで、お互いに目的は同じなのだから、一緒に仕事をしたらどうかと紹介して下さる方もあり、早速私は高楠先生にお会いして、結局、本の内容はまったく同じで、表紙だけは別々に従来のものにした雑誌を出すことにしたのです。
そうして、またアメリカヘ渡りました。それからやはり2年間、再びがんばりました。しかし、今回も経済的にゆきづまってしまいました。29歳の時から、若いエネルギーを傾注してこの仕事を始めたのですが、とうとう刀折れ矢尽きてしまったのです。その時、私はすでに33歳になっておりましたが、つくづく考えました。どんなにいい仕事でも、この経済社会では、お金がなかったらだめなのだ、今後は、人に頼らず、人に迷惑をかけずに自分のお金でやらなければならない、と。こう私は決心したのです。こうして私は秘かな決意を固め、長いアメリカの生活を切り上げて日本へ帰ってきました。昭和5(1930)年のことでした。

帰って参りました当時の日本は、浜口内閣の金解禁による混乱で、不景気のドン底の状態でした。就職口もなんにもありません。しかし私は、アメリカで景気変動学という統計学の一分野をやっておりましたので、幸いにして内閣資源局というお役所に入ることができたのです。その時の課長さんの一人に、経団連会長をなさった植村甲午郎さんが居られました。とにかくそこで採用してもらったので、食う心配だけはなくなって日本の生活が始まりました。
ところが、どうも私は、一生役人をやろうという気になれない。役人をやっていれば、段々地位は上がるし、経済的にも安定するということはわかっていても、どうしてもこのサラリーマン生活がピンとこないのです。それに、なによりも自分が一度失敗したことを、なんとかしてもう一度やり直すためには、とにかく、なにか仕事を始めてお金を儲けなくてはならない。
しかし私は無一文です。それに、儲けるといっても、儲ける途中において人を泣かせ、人を苦しめて儲けたのでは、そのお金をいくらいいことに使っても価値は半減する。だから、儲ける途中においても、人のためになり、社会のためになるものでなくてはならない。ここに私の悩みがありました。役人をやりながら、ずっとそのことを考え続けておりました。そう考えている中に、こう思いついたのです。なんでもないことですが、要は、まだ日本にできていないものを作って売れば、喜ばれるし、儲けることもできるのではないか、と。これだけのことを考えるのに、ずいぶん時間がかかりました。その時分、未だ飛行機はもちろん、国産の自動車もできてはおりません。しかし、私にとって、そんなものを作ることはできませんから「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」の諺の通り、私は小さな町工場から始めて、将来、段々と大きくなっていくような仕事がなにかないだろうかと考えたのです。
色々迷った末、私が最後に思いついたのが、今やっておりますマイクロメータだったのです。自分は一銭もないのにそれをやろうと、役人を辞めると申しましたら、家族もあり、子どももあるのにそんなことをやって、将来、家族を泣かせるようなバカなことはよせ、と周りの人みんなからとめられました。「それなら、私は資金だけ出して、だれか技術者を雇ってやらせます、これならいいでしょう」と、私は借金して、小規模ながら、ついに事業を始めたのです。いわばアルバイトであり、二足のわらじをはいたのです。これが大変なことになるのですが、当時はこわいもの知らずの類いで、おそれるものなしでした。昭和9(1934)年のことです。
さっそく20坪足らずの研究所をつくり、2年間、人に研究をやらせました。しかし、なにひとつ成果は上がりません。そうこうするうちに、借金は莫大な額になってしまいました。上司も同僚も「それみたことか」と忠告してくれます。下僚は嘲笑の目で私をみます。このまま研究を打ち切り、役人をやっていれば、まだなんとかなる。信念を貫くべきか、手を引くべきか。私が長い人生でもっとも迷ったのはこの時でした。
一時期は私もあきらめかかっていたのです。この時期は、いわば私の第2の転換期でありました。私の家は横浜の總持寺の近くにありますが、そこの池のほとりで、夜中、満天の星を眺めながら、どうしようか、役人を辞めようか、思い切ってスタートしようか、やろうか、やるまいか。しまいには混乱してしまって、いっそのこと、役所で自分の首を切ってくれないか、そうすれば、沼田は首になってあんな仕事を始めたということになるだろうと、そんなつまらないことまで考えたのです。
とある晩、私はハタとひざを叩きました。イソップ物語にある話を思い出したのです。今までは雇い人にやらせていた農夫が、自分で麦を刈ろうと決心した時、ヒバリの母親は初めて子どもをつれて巣を離れたという話です。つまり、人まかせで麦を刈っている時は安全だが、本人が自分でやる気になってのり出してきたら、巣はもう安全ではないというわけです。
この真理です。私は目の前が一度にパッと明るくなった思いがしました。迷いがいっぺんにふっきれたのです。私はもうだれの意見も忠告もきかず、サラリと役人の椅子からおりてしまいました。蒲田に小さな納屋をかりてここを工場にし、その隅にベッドをおいて、私は寝食を忘れて研究に没頭しました。昼間は職人を雇って作業をさせ、夜になると、ひとりで、昼間見覚えた手つきで旋盤やドリルを動かす。このままでは、死んでも死にきれない、どんなことがあっても成功させる、と固く心に誓って、毎日が必死の思いでした。しかし、いっこうに成果のあがらない私をみて、近所の人は変人と呼んでいたのです。でも私は単なる意地ではなく、あのアメリカでの地下室の体験を、常に身近にいて下さる親鸞聖人のお言葉を思い浮かべて、どんなことでも耐えることができたのです。

やっとこれならという製品ができたのは、試作に入って4年目、昭和12(1937)年のことです。しかし自信のある製品はできたものの、まったく無名のブランドを、舶来の有名品に伍して売りこんでいく、これがまた大変なことではありましたが、色々の苦心の末、ついに輸入品をおしのけて全国の市場をおさえたばかりか、逆に海外に輸出できるまでに成長していったのです。もちろん、戦後の混乱期もまた大変な日々でした。しかし、そうした試練の日々をのりきることができたのも、私に志があり、その初心が人びとに支持されたからだと私は考えるのです。自分を棄てて、無心になることが、自分を救い、事業を救ったといえないでしょうか。自分の利益のためにやるのではなく、みんなのために、社会のためにやる、勇気はここから湧いてきます。なによりも、私には、仏法広宣のために儲けるんだという誇りがありました。

こうして、お蔭さまで、ある程度の経済的な基盤が固まりました時、私が昔やろうとしてやれなかったことを実現するために、仏教伝道協会という組織を創り現在にいたっているのですが、この協会の活動はまだ新しいものです。実はもうひとつ、私は初心を忘れぬため、事業経営のなかに仏教を生かすための工夫をして参りました。
私の会社では、創業以来、もう40数年〈昭和50(1975)年当時〉、毎月1回、「祖先祭」というちょっと風変わりな行事を行っているのです。これは、どの事業所でも、毎月1回全従業員が仏壇の前に集まり、めいめいの祖先に感謝する儀式です。創業当時から、これは一度も欠かしたことがありません。といって、けっして会社が従業員におしつけているのではありません。宗教、主義、思想をこえて、社員の全員がこの行事に喜んで参加してくれるのです。
この行事を始めたのは、それなりのわけがあります。創業当時の日本は不景気風が吹きまくって世相が悪く、エロ、グロ、ナンセンス時代でした。私の工場で働いてくれる若い人たちも、いくら真面目な者でも、この荒んだ都会の空気にふれると、安易でうすっぺらな生活に走りがちです。しかし、特に地方から出てきた人たちで、出郷時の初心を忘れて享楽の世界に走る人も、田舎にいたならば、おそらくそうならなかったでしょう。祖先を忘れ、父母兄弟を忘れて、ひとりぼっちの孤独な生活を強いられるために、そうなってしまうのではないか。私は、アメリカにいた時の、あの地下室で、父が書いてくれた壁の名号とむかいあった時の安らかな心を思い浮かべずにはおれませんでした。そこで私は、勤務しながら、不幸にも父、母を亡くした人が、亡き人と対話できる場を社内につくろうと思ったのです。その月内に両親、家族の命日をもつ従業員は、全員、仏前でご焼香する。遠く離れていても、その瞬間は、どんな人間でも、真面目に「元気でやっています。ご安心下さい」と心のなかで話しかけるにきまっている。そういう人柄になってほしいと私は考えたのです。幸い、この行事の効果は次第に現われ、地方出身者たちに安らぎの表情が浮かび、工場をやめていく人も目にみえて減りました。それに、なにしろマイクロメータづくりは、目にみえない精密きわまる仕事だけに、手をぬこうとすればいくらでもぬける。いいかげんな仕事をしても、すぐにわかるものではありません。そんな従業員がひとりでもいたら、製品の信用はガタガタになってしまったでしょう。祖先祭を通じて、仏の教えに少しでも近づいてほしいと思ったことが、人間形成に役立つのみか、そのまま、会社の信用や業績にも結びついていたわけです。モノを作ることと、人を作ることとは、別ではないと、強く感じたことです。
話はちょっとちがいますが、美しい人間の心には、やはり美しい環境が必要です。私は工場のすべてに、できるだけ多くの木を植え、花を植えるように心掛けてきました。今はどの私の工場にも、大きく育った木が枝をのばし、青々と葉を広げております。「花のある職場コンクール」で、全国で第1位になったこともあります。あまり自慢できることのない私ですが、実はこのことだけは、無邪気に、心から自慢したいのです。

そんなことで、結局は、親鸞聖人とともに歩んだ一筋の道でございましたが、私はこの年まで命ながらえさせて戴き、本当に無事で、過去においてやろうとしたことを、とにかく曲がりなりにもやらせて載いたということを、本当に感謝せざるをえないのです。寺に生まれ、多くの仏恩にふれながら、お坊さんとしての学問もなく、徳もございません。しかしアショーカ王のようなすばらしい仏教の外護者にはなれないけれど、せめてそのまね位はさせていただきたいと、こう考え、心掛けているわけでございます。仏教を外から守る者として、少しでも今までのご恩に報い、社会のお役に立ちたい、こう考えまして、とにかくこれからが私の本番でございますから、命ある限り、一生懸命やりたいと、こう念じている次第でございます。
「見ずや君 明日は散りなん花だにも 力の限りひと時を咲く」
という九条武子さんの詩は、私の近頃の心境を歌っていただいている様な気がしてなりません。

どうも長い間ご静聴ありがとうございました。

(昭和50(1975)年10月 浅草寺仏教文化講座講演録)

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発願者 沼田惠範略歴

明治30年(1897) 広島県東広島市志和町 浄土真宗本願寺派浄蓮寺
第16世沼田惠生師の三男として生まれる
幼時より篤信の母より深い感化と受け、伝道を志す
大正5年(1916) 浄土真宗本願寺派よりアメリカ開教使補に推され渡米する
大正14年(1925) 仏教をアメリカに伝えるため英文雑誌「ザ・パシフィック・ワールド」を発刊し全米に寄贈
後、資金難により休刊
伝道のため経済的基盤の確立を決意
後、統計学と景気変動学のマスター学位を取得
昭和3年(1928) 米国カリフォルニア大学大学院修了
昭和5年(1930) 内閣資源局統計官を拝命
昭和9年(1934) 仏教伝道のため起業を志し、マイクロメータの国産化を目指して
東京・武蔵新田に研究所を開設
昭和11年(1936) 東京・蒲田に蒲田工場を開設
社名を三豊製作所とする
昭和13年(1938) 三豊製作所を株式組織に変更し代表取締役社長に就任
昭和34年(1959) 学校法人武蔵野女子学院理事に就任
昭和36年(1961) 藍綬褒章を受章
昭和38年(1963) 日本計量器工業連合会常務理事に就任
昭和40年(1965) 財団法人仏教伝道協会を設立、理事に就任
昭和42年(1967) 勲四等旭日小綬章を叙勲
昭和43年(1968) 株式会社三豊製作所会長に就任
昭和44年(1969) 日本精密測定機器工業会理事長に就任
昭和52年(1977) 浄土真宗本願寺派教学助成財団名誉総裁賞を受賞
昭和60年(1985) 株式会社三豊製作所取締役相談役に就任
昭和62年(1987) 東広島市名誉市民章を受章
(株)三豊製作所と三豊商事(株)を合併し、株式会社ミツトヨに社名変更
昭和63年(1988) ハワイ大学名誉人道学博士号の学位を授与される
平成3年(1991) 龍谷大学名誉文学博士号の学位を授与される
計量関係特別功労者として表彰を受ける
平成6年(1994) 5月5日逝去(享年97)