名僧は語る

4.布施について

青山俊董(あおやま しゅんどう)曹洞宗

青山俊董
(あおやま しゅんどう)
曹洞宗

青山 俊董(あおやま しゅんどう、1933年 - )曹洞宗僧侶。駒澤大学仏教学部、同大学院修了。愛知専門尼僧堂堂長。2006年、仏教伝道文化賞功労賞受賞。

 布施というとお坊さまにお経を読んでいただいてお礼をするものと、一般には考えられているが、そんな簡単な話ではない。

 自分が帰依し、あるいは先祖をまつってくれている寺を檀那(だんな)寺と呼び、その寺に所属している信者を檀家と呼び、さらには妻が夫を呼ぶときの言葉になったりというように檀那という言葉は、日本人に親しまれてきた。この檀那は梵語(ぼんご)の「ダーナ」を音写したもので訳して「布施」となった。

 布施には財施(ざいせ)と法施(ほうせ)があり、財施はお金であったり、お米や野菜や衣類などという、いわゆる「物」であり、法施は仏の教えであったり、愛の言葉やほほえみというような「無財(むざい)の七施(しちせ)」とよばれる慈悲の心の施しをいう。その施しをするときの大切な心得は、見返りを期待してはならない、ただやれというのである。無所得の布施を浮きぼりさせるために有所得の汚れた布施を眺めてみよう。『倶舎論(くしゃろん)』に不純な布施の七つが挙げられている。

一、随至施(ずいしせ)―あまりにしつこく乞われるので断りきれずにする布施。
二、怖畏施(ふいせ)―それをしないと具合が悪くなりそうなので、しかたなくする布施
三、報恩施(ほうおんせ)―恩返しのためにする布施
四、求報施(ぐほうせ)―返礼を期待してする布施
五、習先施(しゅうせんせ)―習慣であり、先例にもとづいてする布施
六、希天施(けてんせ)―その功徳によって天界に生まれたいと希望してする布施
七、要名施(ようみょうせ)―名声を高めるためにする布施

 ああ何と、人間の心の奥にうごめく醜い心を、浄頗璃(じょうはり)の鏡にうつし出すようにとらえたものと感心する。

 若き日、旅先で得がたいといわれる墨蹟を求めることができ、よい土産とばかりに書をよくする大先輩に贈った。“わしゃいらんけれど、人にやってもいいから貰っとくわ”という先輩の言葉に、思わず「先生にさしあげたくて求めてきたものです。人にやるならさしあげません」という言葉が私の口からとび出し、ハッとした。「ありがとう、大事にします」という一言を期待している私に気づいたのである。まさに求報施である。“ひとにあげようが、捨てようがお好きなように”といえない自分の姿に気づくことができ、すまなかったという思いと共に、仏法に出会わせていただいているお蔭で、そういう汚れた自分に気づかせていただくことができたことをありがたいと思ったことである。

 三百年近い本堂の立てなおしをしたときのこと。檀信徒の方々にお願いするにあたり、私は建設委員の方々にたのんだ。

 「一度だけ袋を配り、いかほどでもよいからお気持ちを入れていただき、集めてください。一切発表は致しません」と。建設委員が言った。

 「それでは資金が集まらない」と。私は言った。

 「名前を出すか出さないか、またはあの人がこれだけ出したから負けないようにとか、そういう寄付の集め方ではなく、ほんとうの浄信による布施で建てたいから」

 と。名前や寄付額を発表するかしないで寄付金の額を変えるなどは、「要名施」そのものといえよう。無所得の浄信のむずかしさを思うことである。

  布施というはむさぼらざるなり。むさぼらずというは、へつらわざるなり。(要約)

 この道元禅師の言葉に出会ったとき、私はぎくりとし、立ちどまり、幾度も読み返し、その凝視するところの深さに驚いた。わずかなお賽銭を投げるにさえ、山ほどのたのみごとをする。条件づきの布施の心のどまん中には「わが身かわいい」思いがとぐろをまいている。財施ばかりではない。たとえば無財の七施の一つである「和顔施(わげんせ)」、つまりほほえみさえも、貪りやへつらいの心がしのびこむ。

 幼な子の無垢なるえみのまばゆさに
たじろぎつおのが姿かえりみる

 これは「えみ」という勅題(ちょくだい)(平成十八年)によせて詠じた私の歌である。

  たとえば捨つるたからを しらぬ人にほどこさんがごとし

 これも道元禅師は布施の心の中で説かれている一節であり、「捨」という言葉に注目したい。「行捨(ぎょうしゃ)とか不害(ふがい)の心を忘れると、善は押しつけとなり、おせっかいとなり、悪に転ずる(要約)」と語られた太田久紀先生の言葉を、重く心にいただきたい。自己満足にすぎなかったのではないか、相手のお荷物になっていなかったかと。


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