ネルケ無方の処方箋

VOL.06 変わること(第一部最終回)

  欧米には鈴木大拙の書籍などの影響で、1950年代から急速に禅の知名度が高まった。1960~70年代からは多くの道場も開かれている。KarateもAikidoもZenも国際語になっていた。欧米の禅道場は、普通の社会人が会員になり、毎月決まって会費を支払って坐禅や講義に参加するという形をとるのが一般的だ。宗教色はあまりなく、無宗教の人もクリスチャンも気軽に参加している。もちろん、中にはBuddhistと自称する人もいるが、彼らは仏教のことを宗教というより、生きる哲学のように解釈している。私も1980年代、その流れの中で坐禅に出会い、日本に「流され」、安泰寺で出家得度したひとりだ。

  さて、平成13年の夏、私は安泰寺から下山することを決意した。入門した当初、私は「まず黙って10年坐りなさい」と先輩たちから言われていた。皮肉なことにそういう彼らが、全員10年未満で山を下りていったという事実。 私もその2年ほど前に師匠から法を継ぎ、そろそろひとりだちをしなければ・・・と感じるようになってはいたが、いかんせん腰が重かった。いずれは母国ドイツに帰り、禅道場を開こうという使命感はあるもの、しばらくは日本にとどまりたいと思っていた。なにせよ、ドイツには仏教の寺院こそほとんどないが、坐禅ができる道場は大都会はもちろんのこと、地方都市にも散らばっていた。対して日本の寺院はコンビニより数は多いものの、住職の指導の下で修行ができるお寺はあまりなかった。毎日の生活に疲れ切った人々が多く住んでいる日本の大都会では、その数が特に少ないと私は感じていた。

  「帰国する前に、まず日本の都会で一つ道場を開こう!」そう思って私は安泰寺を去り、大阪を目指した。ところが、大阪の家賃は、自分が住むアパートすら借りられないほど高かった。ましてや数人で坐れる道場など、とても構えられそうになかった。やはりこのまま帰国すべきか・・・思い悩みながら大阪城公園をぶらぶらと散策していたところ、あちらこちらでブルーシートを張って生活している人々に気づいた。当時、社会問題として話題になっていたホームレスたちだ。その光景を目の当たりにし、私は悩みの解決策を見出した。それこそお釈迦さまだってキンキラキンのお堂で坐禅をしていたわけではない。宮殿を飛び出して、一人で木の下で坐っていたはずだ。ならば、私もホームレスの新入りとなり、ここで道場を開かせてもらおうと思った。大阪城の濠のふちに、見晴らしのいい一画がまだ空いていた。隣のテントの住人に「わたしも今日からここで住んでもよろしいでしょうか?」と尋ねると、「あぁ、ええで…」と快く許可してくれた。

  最初は一人で坐ることがほとんどだったが、インターネットカフェでホームページを立ち上げ、「私は33歳のドイツ人で、毎朝6時から大阪城公園で坐禅をしています。一緒に坐ってみませんか?」と呼びかけ始めた。

  積極的に坐禅会への参加を募集し始めると、徐々に参加者の数も増えはじめ、私もやる気が出た。ネクラでオタクというレッテルを張られ生きてきて、安泰寺に入門後、夢の出家得度が叶ったにもかかわらず、日ごろ師匠や先輩に怒られていたため、自分の意志で修行をしているというより、人に「修行させられている」、「自分の時間がない」という錯覚に陥ることがしばしばあった。大阪城公園では、1日、24時間はすべて私の時間だった。ようやく水に放たれた魚のようにいきいきと自分のやりたいことができると心躍らせた。

  ところが、ある日「この物件が至急に撤去されなければ、公園管理局が処分する」という1枚の「告」がテントに張ってあった。あまりにも短すぎた楽園での生活… これからはどうしよう。やはりドイツに帰るべきか… そんなことを考えていたら、隣のテントのホームレスが落ち込んでいる私を励ましてくれた。

  「そんなもん、気にせんでええ。あの人ら毎月決まった日に公園中のすべてのテントに張ってんねん。はがせばええ。管理局の連中かて、それ以上何もせえへんわ」

  ビクビクしながら、言われたとおり紙を剥がして破り捨てたが、結局は何も起こらなかった。公園で寄生していたにすぎない自分が、大阪城を自分のポケットに入れたような気持ちになった。最低でも3年間は、ここでやりたいと思っていた。しかし、翌平成14年2月14日に、師匠は除雪中の事故にあい、帰らぬ人となった。お通夜の席で、先輩から「お前は暇そうだから、春までお寺の留守番をしてくれよ」と頼まれた。先輩はそれぞれ、安泰寺を離れて小さな檀家寺の住職になっていた。誰もすぐには、安泰寺に戻れないらしい。確かに、当時の私ほど悠々自適で暇な人はいなかったはずだ。しかし、本音をいえば「またか・・・」という気持ちだった。そして、私が安泰寺に戻りたくない理由がもう一つあった。2月14日といえば、仏教とは何の縁も所縁もないバレンタイン・デーである。公園の坐禅会に通っていた若い女の子と恋に落ち、その日もデートの約束があった。仕方なく愛する彼女に電話をかけ、師匠が急死したことを伝えた。

  「え?いつ戻ってくるん?」

  「どうやら、次の住職が決まるのは春になりそう。それまでは留守番をすることになったんだ…」

  「そっか。わかった!」

  と彼女は優しく返事してくれた。その声はまるで観音さんのように聞こえた。

  桜が咲くころに、師匠の49日の法要があり、ようやく納骨も行われた。そしていつの間にか、「跡継ぎは、あいつでもいいかもしれん」ということになり、気が付いたら私が安泰寺の住職に任命される運びになっていた。我ながら、騙されやすい奴だなと思う。

  大阪の彼女とはまだ数週間しか付き合っていなかったが、これをきっかけにプロポーズした。彼女以上に、彼女の親は驚き迷っていたはずだ。大事に育てた娘を、どこの馬のホネかわからない「外人ホームレス」にやっていいものか… これから山寺の住職になるとはいうものの、お寺には檀家がなく、収入もない。どうやって生活するのだろうか。

  何年間、その仕事をするのかと彼女は私に聞いた。「まず10年だな」、と私は答えた。一人前の弟子が育つまで、最低でもそれくらいの年数はかかる。「場合によって、15年かもしれない」。

  私の代では安泰寺の9番目の住職である。歴代の住職はいずれも10年前後で引退しており、その中でも私の師匠の15年間が一番長かった。私にも、それだけの覚悟はあった。

  結局はOKが出て、未熟な二人が安泰寺を盛り上げることになった。「観音さん」であったその彼女は今や、むしろ「仁王さん」のような態度で私を操る、いわゆるかかあ天下のネルケ家である。10年が過ぎても、15年が過ぎても、彼女はぶーぶー文句をたれながらも安泰寺に住み続けた。いや、一緒に住み続けたことだけで、私の心の柱となった良妻賢母である。

  しかし約束の15年が過ぎてから、「10年も、15年も我慢した。これからは子供の高校の受験もあるしどうすんの?」というつぶやきが増えてきた。禅では「出家」を大事にするが、家族をいつまでも犠牲にしては菩薩の実践は名ばかりのものになってしまう。平成2年に初めて上山し、人生の半分以上を安泰寺で過ごさせていただいたが、そろそろ「バトンタッチ」の時期が来たと私も感じている。

  私は自分を変わっている思ったことはないが、どうやら人の目にはそう映るらしい。「変わった人」ではあるかもしれないが、正直なところ私は「変わること」をあまり好んでいない。高校生のころに坐禅と出会い、大学で日本語を学び、安泰寺で修行をしてから大阪でホームレス生活を送ったという経歴をみると、「なんだ、コロコロ路線が変わっているじゃないか」という人もいるかもしれないが、私はただまっすぐ前に進んだだけのつもりでいる。その都度その都度、縁に触れて受動的に生きていただけだ。

  ところが、安泰寺が変わるためにも、私自身が変わるためにも、今度は私自身が一歩前へ踏み出すことが必要になりそうだ。半生が過ぎた今こそ冷たい水に飛び込まなければならない。これから、どこで何をするか、私が去った後の安泰寺がどう発展してくれるのか、何も定かなことはないが、私に残された道のりは楽しみでもある。

ネルケ無方

安泰寺住職。1968 年のドイツに生まれ、16 才のときに高校のサークルで坐禅と出合う。将来禅僧になることを夢見て、大学で哲学と日本学を専攻、在学中に1年間日本に留学する。安泰寺に上山し、半年間の修行体験を得る。帰国後に大学を修士課程で卒業し、再び安泰寺に入門。八代目の住職、宮浦信雄老師の弟子となる。33才のときに、独立した禅道場を開くために下山。
大阪城公園で「流転会」と称してホームレス雲水生活を開始する。
その6か月後の2002 年2月、師匠の訃報を聞き、テントをたたんで山に戻る。現在は、住職として、雲水と年間100人を超える国内外の参禅者を指導。 大阪で知り合った妻と結婚をし、3人の子供の父親でもある。

ネルケ無方先生