名僧は語る

3.そしらず・へつらわず・ねたまず

松原泰道(まつばら たいどう)臨済宗妙心寺派

松原泰道
(まつばら たいどう)
臨済宗妙心寺派

松原 泰道(まつばら たいどう、1907 - 2009)臨済宗妙心寺派僧侶。早稲田大学文学部卒。臨済宗妙心寺派教学部長。1989年、仏教伝道文化賞受賞。1999年、禅文化賞受賞。

 相手の悪口をいったり、けなしたりするのを「そしる」といいます。このように他を非難する醜い言葉が吐かれる原因は何かといえば、要するに自分が可愛いからでしょう。自分より相手がすぐれていたり、自分の持物よりよい物をもっているのを見ると、ついむらむらと湧いて出るのが、口汚い「そしり」の言葉です。

 「へつらい」は俗にいうおべっかで、相手の気に入るようにおだてたり、お世辞を言ったりすることです。なぜそのように心にもないことを言ったりしたりするかというと、少しでも早く人より出世したいという、やはり自分の可愛いさからでしょう。おもねる(気に入るようにする)・こびる(相手のごきげんをとる)など類語(意味が似ている語)が多いのは、それだけ人間の弱さを示している、ともいえます。

 「ねたみ」も他の長所や幸運をうらやむだけではなく、憎んだりくやしがるのをいいます。それが烈(はげ)しくなるとその人の幸福を邪魔したり、殺したり恐ろしい結果に及びます。一般に考えも及ばない殺人などの結果を招く原因はやはり、最高に自分が可愛いというのが基だと思われます。

 このように見てくると、そしるのもへつらうのもねたむのも、すべて自分を中心にして、自分のことだけを考えて行動する、いわばわがままです。わがままは心の暴動です。

 仏教には創造の神はありません。したがって、私たちの一生は神に支配されるのではなく、自分の行為で善くも悪くも自分の一生をつくり、自分史を書き綴っていくのです。その行為を仏教語で「業(ごう)」といいます。善い行為を善業(ぜんごう)、悪い行為を悪業(あくごう)と呼びます。仏教思想では、善悪いずれの業(行為)も私たちの身と口と意の三つの器官でなされるとします。これを身業(身でする行為)・口業(口でする行為)・意業(心でする行為)の三業(さんごう)といいます。

 さらに詳しく申しますと、身でする身業の悪業は「殺す・盗む・不倫の性行為」の三悪業(さんあくごう)で、身の善業は「活かす・与える・正しい性行為」の三善業(さんぜんごう)です。故に身業は、「三つの身の動作」といえましょう。

 次に口でする悪業は「悪口・両舌(りょうぜつ)(仲たがいをさせるために双方に違ったことをいう)・綺語(きご)(飾りたてたことば・お世辞)・妄語(もうご)(うそいつわり・いらざることをいう)」の
四悪業(四つの悪行為)です。口の善業はその反対の「ほめる・真実を両者に告げる・言葉を飾らない(お世辞をいわない)・真実を話す」の四善業です。つまり口業は、「四つのものの言い方」です。

 最後の意がする悪業は、「貪り(欲の深いこと)・瞋(いか)り(怒ること)・愚痴(ぐち)(正しい通りを知ろうとしない為に生じる心のゆらぎ)」の三悪業で、対する意業の三悪業は「足ることを知る・怒らない・正しい教えを常に聞いて心を柔らかにする」にあります。要するに意業は「三つの心の調え方」にあります。

 以上、身と口と意とで造る悪業の合計が十あるので、仏教語で「十悪業(じゅうあくごう)」と称します。十悪業をわかりやすく和讃(わさん)で、

  意(こころ)に三つ
  身(み)に三つ
  口に四つの
  十悪業

 と詠いあげます。十悪業の名称については先に学びましたが、身と口と意に分けると口の悪業が「悪口・両舌・綺語・妄語」と四つもあります。昔から“口は禍(わざわい)の門(かど)(もん、とも)”といわれます。自分の口から出た言葉が、禍を招くことがあるから、“言葉をつつしむように”との教えです。

 しかし、人を感動させるよい励ましの言葉も、お念仏も、お題目もみな口から発しられますから、“口は幸いの門”でもあります。口が禍福(かふく)のいずれの門になるかは言葉の内容にあります。いま、学習中のテーマ「そしる へつらう ねたむ」はすべて、口でする悪業です。

 「日本人は他の陰口をたたくのが好きだ」と評した外国人があるそうです。マッカーサーは「日本人に陰で褒めてもらうのには莫大なチップが必要だ」とジョークでしょうが言ったといいます。評論家の亀井勝一郎さんは、“言葉は心の脈拍だ”といいます。

 その理由は、医師は脈を診てその人が健康かどうかを知るように、言葉を聞くと、本人の心の健康状態がわかるとするのです。荒々しい言葉を吐く人の心は必ず荒れている。静かな言葉遣いができる人の心は和やかである―と。

 私は“言葉は心の足音である”と考えます。心は姿も形もないので見えませんが、言葉のトーンを聞くと、見えないその人の心の動きが確かに聞こえてきます。言葉つまり口の行為の口業は単独に起きるのではなく、その大本は心にあります。心の動きよう(意業)が、ものの言い方の口業に現われ、また行動や動作の身業を喚び起こすので、意業がいわば人間のする行為(業)の総指揮者です。総指揮者の意業を正しく調えるのにはどうすべきでしょう。

 大正八(一九一九)年に六十一歳で亡くなった釈宗演老師(しゃくそうえんろうし)(鎌倉円覚寺管長)は、座談の席などでほかの長所や徳行を褒める話になると宗演老師は、心からその人を讃えられたといわれます。老師のなされたことはやさしいようで、容易にできないという人もいます。

 しかし、本当に他をそしったり、悪口をいう習慣を直そうとの強い決意を持ってやろう、とするなら、やってやれないことはないでしょう。もし話の勢いで他の悪い批判を止めることも、話題も変えることができなかったら、静かに立ってトイレでも行きましょう。中座して座が揺れると、話題が自然に変わることもあります。要は、ただただ実行にあります。

 “一人では何もできないが、一人が創(はじ)めなければ何も出来ない”という英国のことわざを、私は中学生時代に英語のリーダーで習いました。そしてそのときの若い先生が情熱をこめてこのことわざを解説して、最後に「ことわざにある事を創めるひとりになろう―」と、本当に涙を流しながら少年の私たちに力説されました。私は強く感動して今も私の心の杖ことばにしています。

 事が成ると成らぬとを問わず、人としてすべき事なら「成そう(やろう)」と自分に近い、始めるのが仏教思想の『菩薩(ぼさつ)』であることを、その後に学びました。読者の皆さまと共に、『そしらず へつらわず ねたまず』を誓願する菩薩になりましょう。