修養について

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたいとの願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて編集しております。
ここでは、私たちにとって身近な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただけるように、『和英対照仏教聖典』の言葉から抜粋して、ご紹介いたします。

  • 何が自分の第一の問題か
  • 最初の一歩を慎め
  • 初心を忘れるな
  • その道で成功しようと思う者は幾多の苦難に耐えよ
  • 幾度たおれても奮起せよ
  • 境遇によって心を動かされるな
  • 真理を求めている人は灯を持って暗室に入るようなものである
  • 人生のいたるところに教えあり
  • 人は心の動くままにあやつられて動きがちである
  • こころの有様
  • 心は「我」ではない
  • 自己の心にうち克て
  • 心の主となれ
  • 言葉と心
  • この身は借り物にすぎない
  • 身・口・意の三つを清く保て
  • かたよらずに励め

何が自分の第一の問題か(たとえ話)

例えば、人が恐ろしい毒矢に射られたとする。親戚や友人が集まり、急いで医者を呼び毒矢を抜いて、毒の手当てをしようとする。
ところがそのとき、その人が、
「しばらく矢を抜くのを待て。だれがこの矢を射たのか、それを知りたい。男か、女か、どんな家のものか、また弓は何であったか、大弓か小弓か、木の弓か竹の弓か、弦(つる)は何であったか、藤蔓(ふじつる)か、筋(すじ)か、矢は籐(とう)か葦(あし)か、羽根は何か、それらがすっかりわかるまで矢を抜くのは待て。」と言ったら、どうであろうか。

いうまでもなく、それらのことがわかってしまわないうちに、毒は全身に回って死んでしまうに違いない。この場合にまずしなければならないことは、まず矢を抜き、毒が全身に回らないように手当てをすることである。

この宇宙の組み立てがどうであろうと、この社会のどういう形のものが理想的であろうとなかろうと、身に迫ってくる火は避けなくてはならない。
宇宙が永遠であろうとなかろうと、限りがあろうとなかろうと、生と老と病と死、愁(うれ)い、悲しみ、苦しみ、悩みの火は、現に人の身の上におし迫っている。人はまず、この迫っているものを払いのけるために、道を修めなければならない。

仏の教えは、説かなければならないことを説き、説く必要のないことを説かない。すなわち、人に、知らなければならないことを知り、断たなければならないものを断ち、修めなければならないものを修め、さとらなければならないものをさとれと教えるのである。
だから、人はまず問題を選ばなければならない。自分にとって何が第一の問題であるか、何が自分にもっともおし迫っているものであるかを知って、自分の心をととのえることから始めなければならない。

(パーリ、中部 7―63、箭喩経)
『和英対照仏教聖典』297頁9行~301頁7行

最初の一歩を慎め

道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。

(四十二章経)
『和英対照仏教聖典』263頁1行~4行

初心を忘れるな(たとえ話)

樹木の芯を求めて林に入った者が、枝や葉を得て芯を得たように思うならば、まことに愚かなことである。ややもすると、人は、木の芯を求めるのが目的でありながら、木の外皮や内皮、または木の肉を得て芯を得たように思う。

人の身の上に迫る生と老と病と死と、愁(うれ)い、悲しみ、苦しみ、悩みを離れたいと望んで道を求める。これが芯である。それが、わずかな尊敬と名誉とを得て満足して心がおごり、自分をほめて他をそしるのは、枝葉を得ただけにすぎないのに芯を得たと思うようなものである。

また、自分のわずかな努力に慢心して、望んだものを得たように思い、満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の外皮を得て芯を得たと思うようなものである。

また、自分の心がいくらか静まり安定を得たとして、それに満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の内皮を得て芯を得たと思うようなものである。

また、いくらかものを明らかに見る力を得て、これに眼がくらんで心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の肉を得て芯を得たと思うようなものである。これらのものはみなすべて、気がゆるんで怠り、ふたたび苦しみを招くに至るであろう。

道を求める者にとっては、尊敬と名誉と供養(くよう)を受けることがその目的ではない。わずかな努力や、多少の心の安定、またわずかな見る力が目的なのではない。

まず最初に、人はこの世の生と死の根本的な性質を心に留めなければならない。

(パーリ、中部 3―29、大樹芯喩経)
『和英対照仏教聖典』301頁8行~303頁16行

その道で成功しようと思う者は幾多の苦難に耐えよ(物語)

昔、ヒマーラヤ山に真実を求める行者がいた。ただ迷いを離れる教えを求めて、そのほかは何も求めるものがなく、地上に満ちた財宝はもとより、神の世界の栄華さえ望むところではなかった。
神はこの行者の行いに感動し、その心のまことを試そうと鬼の姿となってヒマーラヤ山に現われ、「ものみなはうつり変わり、現われては滅びる。」と歌った。
行者はこの歌声を聞き、渇いたものが水を得たように、また囚(とら)われたものが放たれたように喜んで、これこそまことの理(ことわり)である、まことの教えであると思い、彼はあたりを見まわして、だれがこの尊い詩を歌ったのであろうかとながめ、そこに恐ろしい鬼を見いだした。怪しみながらも鬼に近づいて、「先ほどの詩はおまえの歌ったものか。もしそうなら、続きを聞かせてもらいたい。」と願った。
鬼は答えた。
「そうだ、それはわたしの詩だ。しかし、わたしはいま飢えているから、何か食べなくては歌うことができない。」
行者はさらに願った。
「どうかそう言わずに、続きを聞かせてもらいたい。あの詩には、まことに尊い意味があり、わたしの求めているものがある。しかし、あれだけではことばは終わっていない。どうか詩の残りを教えていただきたい。」
鬼はさらに言う。
「いまわたしは空腹に耐えられない。もし人の温かい肉を食べ、血をすすることができるならば、あの詩の続きを説くであろう。」
これを聞いた行者は、続きの詩を聞かせてもらえるならば、聞き終わってから、自分の身を与えるであろうと約束した。
鬼はそこで、残りを歌い、詩は完全なものとなった。それはこうである。
「ものみなはうつり変わり、現われては滅びる。生滅にとらわれることなくなりて、静けさと安らぎは生まれる。」
行者はこの詩を木や石に彫りつけ、やがて木の上にのぼり、身をおどらせて鬼の前に投げ与えた。その瞬間、鬼は神の姿にかえり、行者の身は神の手に安らかに受けとめられた。

(大般涅槃経)
『和英対照仏教聖典』313頁21行~317頁11行

幾度たおれても奮起せよ(物語)

昔、五武器(ごぶき)太子とよばれる王子がいた。五種の武器を巧みにあやつることができたので、この名を得たのである。修行を終えて郷里に帰る途中、荒野の中で、脂毛(しもう)という名の怪物に出会った。
脂毛は、そろそろと歩いて王子に迫ってきた。王子はまず矢を放ったが、矢は脂毛に当たっても毛にねばりつくばかりで傷つけることができない。剣も鉾(ほこ)も棒も槍も、すべて毛に吸い取られるだけで役に立たない。
武器をすべてなくした王子は、こぶしを上げて打ち、足を上げて蹴ったが、こぶしも足もみな毛に吸いつけられて、王子の身は脂毛の身にくっついて宙に浮いたままである。頭で脂毛の胸を打っても、頭もまた胸の毛について離れない。
脂毛は、「もうおまえはわしの手の中にある。これからおまえを餌食にする。」と言うと、王子は笑って、
「おまえはわたしの武器がすべて尽きたように思うかも知れないが、まだわたしには金剛の武器が残っている。おまえがもしわたしをのめば、わたしの武器はおまえの腹の中からおまえを突き破るであろう。」と答えた。
そこで脂毛は王子の勇気にくじけて尋ねた。
「どうしてそんなことができるのか。」
「真理の力によって。」と王子は答えた。そこで脂毛は王子を離し、かえって王子の教えを受けて、悪事から遠ざかるようになった。

(パーリ、本生経55)
『和英対照仏教聖典』343頁7行~345頁9行

境遇によって心を動かされるな(物語)

昔、ある金持ちの女主人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの使用人がいて、これも利口でよく働く人であった。
あるとき、その使用人がこう考えた。
「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう。」
そこで、使用人は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。女主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。
「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません。」とことばを返すと、女主人は怒った。
使用人はさらに次の日も遅く起きた。女主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、女主人はそれまでのよい評判を失った。

(パーリ、中部 3―21、鋸喩経)
『和英対照仏教聖典』245頁1行~14行

真理を求めている人は灯火を持って暗室に入るようなものである

道を行うものは、例えば、灯火(ともしび)をかかげて、暗黒の部屋に入るようなものである。闇はたちまち去り、明るさに満たされる。
道を学んで、明らかにこの四つの聖い真理を知れば、智慧(ちえ)の灯火を得て、無知の闇は滅びる。

(四十二章経)
『和英対照仏教聖典』79頁9行~13行

人生いたるところに教えあり(物語)

昔、スダナ(善財)という童子があった。この童子もまた、ただひたすらに道を求め、さとりを願う者であった。海で魚をとる漁師を訪れては、海の不思議から得た教えを聞いた。人の病を診る医師からは、人に対する心は慈悲(じひ)でなければならないことを学んだ。また、財産を多く持つ長者に会っては、あらゆるものはみなそれなりの価値をそなえているということを聞いた。
また坐禅する出家を訪れては、その寂(しず)かな心が姿に現われて、人びとの心を清め、不思議な力を与えるのを見た。また気高い心の婦人に会ってはその奉仕の精神にうたれ、身を粉にして骨を砕いて道を求める行者にめぐり会っては、真実に道を求めるためには、刃の山にも登り、火の中でもかき分けてゆかなければならないことを知った。
このように童子は、心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えであることを知った。
かよわい女にもさとりの心があり、街に遊ぶ子供の群れにもまことの世界のあることを見、すなおな、やさしい人に会っては、ものに従う心の明らかな智慧(ちえ)をさとった。

香をたく道にも仏の教えがあり、華(はな)を飾る道にもさとりのことばがあった。ある日、林の中で休んでいたときに、彼は朽(く)ちた木から一本の若木が生えているのを見て生命の無常を教わった。

昼の太陽の輝き、夜の星のまたたき、これらのものも善財童子のさとりを求める心を教えの雨でうるおした。
童子はいたるところで道を問い、いたるところでことばを聞き、いたるところでさとりの姿を見つけた。
まことに、さとりを求めるには、心の城を守り、心の城を飾らなければならない。そして敬􄼲(けいけん)に、この心の城の門を開いて、その奥に仏をまつり、信心の華を供え、歓喜(かんぎ)の香を捧げなければならないことを童子は学んだのである。

(華厳経第34、入法界品)
『和英対照仏教聖典』319頁15行~323頁8行

人は心の動くままにあやつられて動きがちである

人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。貪りを思えば貪りの心が起こる。瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。愚かなことを思えば愚かな心が多くなる。
牛を飼う人は、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、または殺されたりすることを防ぐのである。
人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋らず、損なわない心を育てなければならない。
牛を飼う人は、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。
人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。

(パーリ、中部 19、雙考経)
『和英対照仏教聖典』239頁17行~241頁13行

心の有様(たとえ話)

その方法は一つではない。例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕らえて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。
このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその住みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このためにお互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられていく。
ちょうどこのたとえのように、人びとは眼に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。
またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。
これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。

(パーリ、相応部 35―206)
『和英対照仏教聖典』233頁11行~235頁13行

心は「我」ではない

もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、そのとおりにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。

(パーリ、中部 4―35、薩遮迦小径)
『和英対照仏教聖典』91頁13行~93頁2行

自己の心にうち克て

「わが心よ、おまえはどうして、無益な境地に進んで少しの落着きもなく、そわそわとして静かでないのか。
どうしてわたしを迷わせて、いたずらに、ものを集めさせるのか。
大地を耕そうとして、鍬(くわ)がまだ大地に触れないうちにこわれてしまっては耕すことができないように、生死(しょうじ)の迷いの海にさまよっていたので、数知れない生命を捨てたのに、心の大地の耕されることはなかった。
心よ、おまえはわたしを王者に生まれさせたこともある。また貧しい者に生まれさせて、あちこちに食を乞(こ)い歩かせたこともある。
ときにはわたしを神々の国に生まれさせ、栄華の夢に酔わせたこともあるが、また地獄の火で焼かせたこともある。
愚かな心よ、おまえはわたしをさまざまな道に導いた。わたしはこれまで、常におまえに従ってそむくことはなかった。しかし、いまやわたしは仏の教えを聞く身となった。もはやわたしを悩ましたり、妨げたりしないでくれ。どうかわたしが、さまざまな苦しみから離れて、速やかにさとりを得られるように努めてくれ。
心よ、おまえが、すべてのものはみな実体がなくうつり変わると知って、執着(しゅうじゃく)することなく、何ものもわがものと思うことがなく、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさを離れさえすれば、安らかになるのである。
智慧(ちえ)の剣をもって愛欲の蔓(つる)を断ち、利害と損得と、たたえとそしりとにわずらわされることがなくなれば、安らかな日を得ることができるのである。
心よ、おまえは、わたしを導いて道を求めることを思い立たせた。ところがいま、どうしてまたふたたび、この世の利欲と栄華にひかれて、動き回ろうとするのであるか。
形がなくて、どこまでも遠く駆けてゆく心よ。どうか、この超え難い迷いの海を渡らせてくれ。これまでわたしは、おまえの思うとおりに動いてきた。
しかし、これからは、おまえはわたしの思うとおりに動かなければならない。我らはともに仏の教えに従おう。
心よ、山も川も海も、すべてはみなうつり変わり、災いに満ちている。この世のどこに楽しみを求めることができようか。教えに従って、速やかにさとりの岸に渡ろうではないか。」

(パーリ、長老偈註)
『和英対照仏教聖典』305頁8行~309頁5行

心の主(あるじ)となれ

教えのかなめは心を修めることにある。だから、欲をおさえておのれに克(か)つことに努めなければならない。身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。貪(むさぼ)ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常(むじょう)を忘れてはならない。
もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。心に従わず、心の主(あるじ)となれ。
心は人を仏にし、また、畜生にする。迷って鬼となり、さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、道に外れないよう努めるがよい。

(般泥洹経)
『和英対照仏教聖典』21頁15行~23頁3行

言葉と心

すべてことばには、時にかなったことばとかなわないことば、事実にかなったことばとかなわないことば、柔らかなことばと粗いことば、有益なことばと有害なことば、慈(いつく)しみあることばと憎しみのあることば、この五対(つい)がある。
この五対のいずれによって話しかけられても、
「わたしの心は変わらない。粗いことばはわたしの口から漏れない。同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように。」と努めなければならない。

(パーリ、中部 3―21、鋸喩経)
『和英対照仏教聖典』247頁8行~16行

この身は借り物にすぎない(物語)

ひとりの人が旅をして、ある夜、ただひとりでさびしい空き家に宿をとった。すると真夜中になって、一匹の鬼が人の死骸をかついで入ってきて、床の上にそれを降ろした。
間もなく、後からもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。
すると、前の鬼が後の鬼に言うには、
「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有をきめよう。」
後の鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついで来たかを言ってくれと頼んだ。
男はもう絶体絶命である。どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。
案の定、一方の鬼は大いに怒ってその男の手をもぎ取った。これを見た前の鬼は、すぐ死骸(しがい)の手を取って来て補った。後の鬼はますます怒ってさらに手を抜き足を取り、胴を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。前の鬼は次々に、死体の手、足、胴、頭を取って、みなこれを補ってしまった。
こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。
男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見も知らぬ死体のものである。一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに、空き家を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。人びとは、この話の中に、無我(むが)の理(ことわり)を感得し、まことに尊い感じを得た。

(雑宝蔵経)
『和英対照仏教聖典』283頁6行~285頁15行

身・口・意の三つを清く保て

道を求めるものは、常に身と口と意(こころ)の三つの行いを清めることを心がけなければならない。身の行いを清めるとは、生きるものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。口の行いを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。意の行いを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。
心が濁(にご)れば行いが汚れ、行いが汚れると、苦しみを避けることができない。だから、心を清め、行いを慎(つつし)むことが道のかなめである。

(パーリ、増支部 3―117)
『和英対照仏教聖典』243頁10行~19行

かたよらずに励め(物語)

世尊(せそん)の弟子シュローナは富豪の家に生まれ、生まれつき体が弱かった。世尊にめぐり会ってその弟子となり、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続け、道を修めたけれども、なおさとりを得ることができなかった。
世尊はシュローナを哀(あわ)れんで言われた。
「シュローナよ、おまえは家にいたとき、琴を学んだことがあるであろう。糸は張ること急であっても、また緩(ゆる)くても、よい音は出ない。緩急(かんきゅう)よろしきを得て、はじめてよい音を出すものである。
さとりを得る道もこれと同じく、怠(おこた)れば道を得られず、またあまり張りつめて努力しても、決して道は得られない。だから、人はその努力についても、よくその程度を考えなければならない。」
この教えを受けて、シュローナはよく会得し、やがてさとりを得ることができた。

(パーリ、長老偈註)
『和英対照仏教聖典』341頁11行~343頁6行


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