信仰について

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたいとの願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて編集しております。
ここでは、私たちにとって身近な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただけるように、『和英対照仏教聖典』の言葉から抜粋して、ご紹介いたします。

  • 信仰は火である
  • 信仰は三つの心をともなう
  • 信仰は不思議なもの
  • 信仰は真実の現われ
  • 真実なものが見分け難いのは
  • 仏性は正しい師によってそのありかを知らされる
  • 仏性は煩悩に包まれている
  • 信仰を妨げるものは疑い
  • 仏は父、人はその子である
  • 仏の智彗は海のように広く深い
  • 仏の心は大慈悲である
  • 仏の慈悲は永遠のものである
  • 仏は肉身ではない
  • 仏は身をもって教えを説かれた
  • 仏は方便をもって人びとの悩みを救われた
  • さとりの世界
  • 仏・法・僧に帰依する
  • 戒・定・彗の三つを学べ
  • 八つの正しい道
  • さとりを得る六つの道
  • 四つの正しい勤め
  • 四つの正しい見方
  • さとりを得る五つの力
  • 四つの大きな心
  • 人生に覚めた人
  • 人間の死と無常
  • 念仏者は浄土に生まれる
  • 自らを灯とし、頼りとせよ

信仰は火である

信こそはまことに人の善き伴侶であり、この世の旅路の糧(かて)であり、この上ない富である。

(パーリ、相応部 1―4―6)

信は仏の教えを受けて、あらゆる功徳(くどく)を受けとる清らかな手である。

信は火である。人びとの心の汚れを焼き清め、同じ道に入らせ、その上、仏の道に進もうとする人びとを燃えたたせるからである。

信は人の心を豊かにし、貪りの思いをなくし、おごる心を取り去って、へりくだり敬うことを教える。こうして、智慧(ちえ)は輝き、行いは明らかに、困難に破れず、外界にとらわれず、誘惑に負けない、強い力が与えられる。

信は、道が長く退屈なときに励ましとなり、さとりに導く。

信は、常に仏の前にいるという思いを人に与え、仏に抱かれている思いを与え、身も心も柔らかにし、人びとによく親しみなじむ徳を与える。

(華厳経第33、離世間品)
『和英対照仏教聖典』355頁6行~357頁4行

信仰は三つの心をともなう

信には、懺悔(さんげ)と、随喜(ずいき)と、祈願の三つのすがたが現われてくる。

深くおのれを省みて、自分の罪と汚れを自覚し、懺悔する。他人の善いことを見るとわがことのように喜んでその人のために功徳(くどく)を願う心が起きる。またいつも仏とともにおり、仏とともに行い、仏とともに生活することを願うのである。

(金光明経第四、金鼓品)
『和英対照仏教聖典』357頁12行~359頁5行

信仰は不思議なもの

エーランダという毒樹の林には、エーランダの芽だけが吹き出して、チャンダナ(栴檀・せんだん)の香木は生えることはない。エーランダの林にチャンダナが生えたならば、これはまことに不思議である。

いま人びとの胸のうちに、仏に向かい、仏を信ずる心の生じたのも、これと同じく不思議なことといわなければならない。

だから、人びとの仏を信ずる信の心を無根の信という。無根というのは、人びとの心の中には信の生え出る根はないが、仏の慈悲(じひ)の心の中には、信の根があることをいうのである。

(大般涅槃経)
『和英対照仏教聖典』361頁1行~10行

信仰は真実の現われ

この信ずる心は、誠の心であり、深い心であり、仏の力によって仏の国に導かれることを喜ぶ心である。

(観無量寿経)

すべての所でたたえられる仏の名を聞いて、信じ喜ぶ一念のあるところにこそ、仏は真心こめて力を与え、その人を仏の国に導き、ふ たたび迷いを重ねることのない身の上にするのである。

(無量寿経)
『和英対照仏教聖典』359頁6行~11行

真実なものが見分け難いのは(たとえ話)

昔、ひとりの王があって、象を見たことのない人を集め、目かくしして象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいに言わせた。象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、鼻に触れた者は、杵のようなものであるといい、足に触れた者は、臼のようなものであるといい、尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。
人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、その本性である仏性(ぶっしょう)を言い当てることは容易ではない。
死によっても失われず、煩悩(ぼんのう)の中にあっても汚れず、しかも永遠に滅びることのない仏性を見つけることは、仏と法によるもののほかは、でき得ないのである。

(大般涅槃経)
『和英対照仏教聖典』149頁1行~14行

仏性は正しい師によってそのありかを知らされる(たとえ話)

例えば、宮廷に仕える一力士が、眉間に小さな金剛の珠玉(しゅぎょく)を飾ったまま相撲をとって、その額を打ち、玉が膚(はだ)の中に隠れてできものを生じた。力士は、玉をなくしたと思い、ただそのできものを治すために医師に頼む。医師は一目見て、そのできものが膚の中に隠れた玉のせいであると知り、それを取り出して力士に見せた。
人びとの仏性(ぶっしょう)も煩悩(ぼんのう)の塵の中に隠れ、見失われているが、善き師によってふたたび見いだされるものである。
このように、仏性はあっても貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさのために覆われ、業(ごう)と報(むく)いとに縛られて、それぞれ迷いの境遇を受けるのである。しかし、仏性は実際には失われても破壊されてもおらず、迷いを取り除けばふたたび見いだされるものである。
たとえの中の力士が、医師によって取り出されたその玉を見たように、人びとも、仏の光によって仏性を見ることであろう。

(大般涅槃経)
『和英対照仏教聖典』153頁13行~155頁12行

仏性は煩悩に包まれている(たとえ話)

昔、ある人が友の家に行き、酒に酔って眠っているうちに、急用で友は旅立った。友はその人の将来を気づかい、価の高い宝石をその人の着物のえりに縫いこんでおいた。
そうとは知らず、その人は酔いからさめて他国へとさすらい、衣食に苦しんだ。その後、ふたたびその旧友にめぐり会い、「おまえの着物のえりに縫いこまれている宝石を用いよ。」と教えられた。
このたとえのように、仏性の宝石は、貪(むさぼ)りや瞋(いか)りという煩悩(ぼんのう)の着物のえりに包まれて、汚されずにいるのである。

(法華経第七、化城喩品及び首楞厳経)

どんな人でも仏の智慧のそなわらないものはないから、仏は人びとを見通して、「すばらしいことだ、人びとはみな仏の智慧と功徳とをそなえている。」とほめたたえる。

(華厳経第三十二、如来性起品)

人びとは愚かさに覆われて、ものごとをさかさまに見、おのれの仏性(ぶっしょう)を見ることができないから、仏は人びとに教えて、その妄想(もうぞう)を離れさせ、本来、仏と違わないものであることを知らせる。

(華厳経第三十二、如来性起品)
『和英対照仏教聖典』145頁10行~147頁9行

信仰を妨げるものは疑い

信はこのように尊く、まことに道のもとであり功徳(くどく)の母であるが、それにもかかわらず、この信が道を求める人にも円満に得られないのは、次の五つの疑いが妨げているからである。
一つには、仏の智慧(ちえ)を疑うこと。
二つには、教えの道理に惑うこと。
三つには、教えを説く人に疑いを持つこと。
四つには、求道の道にしばしば迷いを生ずること。
五つには、同じく道を求める人びとに対して、慢心から相手を疑って、いらだつ思いがあるためである。
まことに世に疑いほど恐ろしいものはない。疑いは隔てる心であり、仲を裂く毒であり、互いの生命を損なう刃であり、互いの心を苦しめる棘(とげ)である。

(パーリ、中部 2―16、心荒野経)
『和英対照仏教聖典』361頁11行~363頁3行

仏は父、人はその子である

仏は実に聖者の中の尊い聖者であり、この世の父である。だから、あらゆる人びとはみな仏の子である。彼らはひたすらこの世の楽しみにのみかかわり、その災いを見通す智慧(ちえ)を持たない。この世は苦しみに満ちた恐るべきところ、老いと病と死の炎は燃えてやまない。
ところが、仏は迷いの世界という火の宅(いえ)を離れ、静寂な林にあって、「いまこの世界はわがものであり、その中の生けるものたちはみなわが子である。限りない悩みを救うのはわれひとりである。」と言う。

(法華経第三、譬喩品)
『和英対照仏教聖典』69頁13行~71頁5行

仏の智慧は海のように広く深い

静かな大海に、大空の星がすべてその形を映し出すように、仏の智慧(ちえ)の海には、すべての人びとの心や思いや、その他あらゆるものがそのままに現われる。だから仏を一切知者(いっさいちしゃ)という。
この仏の智慧はあらゆる人びとの心をうるおし、光を与え、人びとにこの世の意味、盛衰、因果(いんが)の道理を明らかに知らせる。まことに仏の智慧によってのみ人びとはよくこの世のことを知る。

(華厳経第三十二、如来性起品)
『和英対照仏教聖典』67頁7行~14行

仏の心は大慈悲である

仏の心とは大慈悲(だいじひ)である。あらゆる手だてによって、すべての人びとを救う大慈の心、人とともに病み、人とともに悩む大悲の心である。

(観無量寿経・維摩経)
『和英対照仏教聖典』29頁1行~3行

仏の慈悲は永遠のものである

仏の慈悲(じひ)をただこの世一生だけのことと思ってはならない。それは久しい間のことである。人びとが生まれ変わり、死に変わりして迷いを重ねてきたその初めから今日まで続いている。

(法華経第十六、寿量品)
『和英対照仏教聖典』31頁5行~8行

仏は肉身ではない

仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。

(長阿含経第二、遊行経等)
『和英対照仏教聖典』25頁18行~27頁2行

仏は身をもって教えを説かれた

仏はただことばで教えるだけではなく、身をもって教える。仏は、その寿命に限りはないが、欲を貪(むさぼ)って飽くことのない人びとを目覚ますために、手段として死を示す。

例えば多くの子を持つ医師が、他国へ旅をした留守に子供らが毒を飲んで悶(もだ)え苦しんだとしよう。医師は帰ってこの有様を見、驚いてよい薬を与えた。

子供たちのうち、正常な心を失っていない者はその薬を飲んで病を除くことができたけれども、すでに正常な心を失ってしまった者はその薬を飲もうとしなかった。

父である医師は、彼らの病をいやすために思いきった手段をとろうと決心した。彼は子供たちに言った――「わたしは長い旅に出かけなければならない。わたしは老いて、いつ死ぬかもわからない。もしわたしの死を聞いたなら、ここに残しておく薬を飲んで、おのおの元気になるがよい。」こうして彼はふたたび長い旅に出た。そして使いを遣わしてその死を告げさせた。

子供たちはこれを聞いて深く悲しみ、「父は死んだ。もはやわれわれにはたよる者がなくなった。」と嘆いた。悲しみと絶望の中で、彼らは父の遺言を思い出し、その薬を飲み、そして回復した。

世の人はこの父である医師のうそを責めるであろうか。仏もまたこの父のようなものである。仏は、欲望に追いまわされている人びとを救うために、仮にこの世に生と死を示したのである。

(法華経第十六、寿量品)
『和英対照仏教聖典』45頁15行~47頁18行

仏は方便をもって人びとの悩みを救われた(たとえ話)

それでは一つの比喩を説こう。ある町に長者があって、その家が火事になった。たまたま外にあった長者は帰宅して驚き、子供たちを呼んだが、彼らは遊びにふけって火に気づかず、家の中にとどまっていた。

父は子供たちに向かって――「子供たちよ、逃げなさい、出なさい。」と叫んだが、子供たちは父の呼び声に気がつかなかった。

子供たちの安否を気遣う父はこう叫んだ――「子供たちよ、ここに珍しいおもちゃがある。早く出て来て取るがよい。」子供たちはおもちゃと聞いて勇み立ち、火の家から飛び出して災いから免れることができた。

この世はまことに火の家である。ところが人びとは、家の燃えていることを知らず、焼け死ぬかも知れない恐れの中にある。だから、仏は大悲の心から限りなくさまざまに手段をめぐらして人びとを救う。

(法華経第三、譬喩品)

別の比喩(たとえ)を説こう。昔、長者のひとり子が、親のもとを離れてさすらいの身となって、貧困のどん底に落ちぶれた。

父は故郷を離れて息子の行方を求め、あらゆる努力をしたにもかかわらず、どうしてもその行方を求めることができなかった。

それから十数年か経って、今はみじめな境遇に成り果てた息子が、たまたま父の住んでいる町の方へさすらってきた。

めざとくもわが子を認めた父は喜びに躍り上がり、使用人を遣って放浪の息子を連れもどそうとした。しかし、息子は疑い、だまされるのを恐れて、行こうとしなかった。

そこで父はもう一度使用人を息子に近よらせ、よい賃金の仕事を長者の家で与えようと言わせた。息子はその手段に引き寄せられて仕事を引き受け、使用人のひとりとなった。

父の長者は、わが家とも知らずに働いているわが子をおいおいに引き立て、ついには金銀財宝の蔵を管理させるに至ったが、それでも息子はなお父とは知らないでいた。

父はわが子が素直になったのを喜び、またわが命のやがて尽きようとするのを知って、ある日、親族・友人・知己(ちき)を呼び集めてこう語った――「人びとよ、これはわが子である。永年探し求めていた息子である。今より後、わたしのすべての財宝はみなこの子のもので ある。」

息子は父の告白に驚いてこう言った――「今、わたしは父親を見いだしたばかりでなく、思いがけずこれらすべての財宝までもわたしのものとなった。」

ここにいう長者とは仏のことである。迷える息子とはすべての人びとのことである。仏の慈悲(じひ)は、ひとり子に向かう父の愛のようにすべての人びとに向かう。仏はすべての人びとを子として教え導き、さとりの宝をもって彼らを富める者とする。

(法華経第四、信解品)
『和英対照仏教聖典』37頁5行~41頁10行

さとりの世界

仏は彼岸(ひがん)に立って待っている。彼岸はさとりの世界であって、永久に、貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさと苦しみと悩みとのない国である。そこには智慧(ちえ)の光だけが輝き、慈悲(じひ)の雨だけが、しとしとと潤している。

この世にあって、悩む者、苦しむ者、悲しむ者、または、教えの宣布(せんぷ)に疲れた者が、ことごとく入って憩い休らうところの国である。

(大般涅槃経)
『和英対照仏教聖典』469頁10行~16行

仏・法・僧に帰依する

仏(ほとけ)と教えと教団の、この三つは、三つでありながら、離れた三つではない。仏は教えに現われ、教えは教団に実現されるから、三つはそのまま一つである。

だから、教えと教団を信ずることは、そのまま仏を信ずることであり、仏を信ずれば、おのずから教えと教団とを信ずることになる。

(維摩経)
『和英対照仏教聖典』353頁1行~6行

戒・定・慧の三つを学べ

さとりを求める者が学ばなければならない三つのことがある。それは戒律(かいりつ)と心の統一(定(じょう))と智慧(ちえ)の三学である。

戒とは何であるか。人として、また道を修める者として守らなければならない戒を保ち、心身を統制し、五つの感覚器官の入口を守って、小さな罪にも恐れを見、善い行いをして励み努めるこである。

心の統一とは何であるか。欲を離れ不善を離れて、次第に心の安定に入ることである。

智慧とは何であるか。四つの真理を知ることである。それは、これが苦しみである、これが苦しみの原因である、これが苦しみの消滅である、これが苦しみの消滅に至る道であると、明らかにさとることである。

(パーリ、増支部 3―88)
『和英対照仏教聖典』323頁10行~325頁6行

八つの正しい道

八正道(はっしょうどう)は、正しいものの見方、正しいものの考え方、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念(おも)い、正しい心の統一である。

正しいものの見方とは、四つの真理(四諦(したい))を明らかにして、原因・結果の道理を信じ、誤った見方をしないこと。
正しいものの考え方とは、欲にふけらず、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、害なう心のないこと。
正しいことばとは、偽りと、むだ口と、悪口と、二枚舌を離れること。
正しい行いとは、殺生(せっしょう)と、盗みと、よこしまな愛欲を行わないこと。
正しい生活とは、人として恥ずべき生き方を避けること。
正しい努力とは、正しいことに向かって怠ることなく努力すること。
正しい念いとは、正しく思慮深い心を保つこと。
正しい心の統一とは、誤った目的を持たず、智慧(ちえ)を明らかにするために、心を正しく静めて心の統一をすることである。

(パーリ、中部 14―141、分別聖諦経)
『和英対照仏教聖典』329頁9行~331頁13行

さとりを得る六つの道

六波羅蜜(ろっぱらみつ)とは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六つのことで、この六つを修めると、迷いの此(こ)の岸から、さとりの彼(か)の岸へと渡ることができるので、六度ともいう。

布施は、惜しみ心を退け、持戒は行いを正しくし、忍辱は怒りやすい心を治め、精進は怠りの心をなくし、禅定は散りやすい心を静め、智慧は愚かな暗い心を明らかにする。

布施と持戒とは、城を作る礎(いしずえ)のように、修行の基(もと)となり、忍辱と精進とは城壁のように外難を防ぎ、禅定と智慧とは、身を守って生死を逃れる武器であり、それは甲冑(かっちゅう)に身をかためて敵に臨むようなものである。

(華厳経第六、明難品)
『和英対照仏教聖典』333頁20行~335頁9行

四つの正しい勤め

四正勤(ししょうごん)とは次の四つである。
これから起ころうとする悪は、起こらない先に防ぐ。
すでに起こった悪は、断ち切る。
これから起ころうとする善は、起こるようにしむける。
すでに起こった善は、いよいよ大きくなるように育てる。
この四つを努めることである。

(般泥洹経上巻)
『和英対照仏教聖典』333頁7行~12行

四つの正しい見方

四念住(しねんじゅう)とは次の四つである。
わが身は汚れたもので執着すべきものではないと見る。
どのような感じを受けても、それはすべて苦しみのもとであると見る。
わが心は常にとどまることがなく、絶えずうつり変わるものと見る。
すべてのものはみな原因と条件によって成り立っているから、一つとして永久にとどまるものはないと見る。

(般泥􄈥経上巻)
『和英対照仏教聖典』331頁14行~333頁6行

さとりを得る五つの力

五力(ごりき)とは、次の五つである。
信ずること。
努めること。
思慮深い心を保つこと。
心を統一すること。
明らかな智慧(ちえ)を持つこと。
この五つがさとりを得るための力である。

(パーリ、増支部 5―16)
『和英対照仏教聖典』333頁13行~19行

四つの大きな心

道を求める者の修めなければならない慈(じ)と悲(ひ)と喜(き)と捨(しゃ)の四つの大きな心(四無量心・しむりょうしん)がある。
慈を修めると貪(むさぼ)りの心を断ち、悲を修めると瞋(いか)りの心を断ち、喜は苦しみを断ち、捨は、恩と恨みのいずれに対しても違いを見ないようになる。
多くの人びとのために、幸福と楽しみとを与えることは、大きな慈である。多くの人びとのために、苦しみと悲しみをなくすことが大きな悲である。多くの人びとに歓喜(かんぎ)の心をもって向かうのが大きな喜である。すべてのものに対して平等で、分け隔てをしないのが大きな捨である。
このように、慈と悲と喜と捨の四つの大きな心を育てて、貪りと瞋りと苦しみと愛憎の心を除くのであるが、悪心の去り難い心とは飼犬のようであり、善心の失われやすいことは林を走る鹿のようである。また、悪心は岩に刻んだ文字のように消えにくく、善心は水に画いた文字のように消えやすい。だから道を修めることはまことに困難なものといわなければならない。

(大般涅槃経)
『和英対照仏教聖典』339頁15行~341頁10行

人生に覚めた人

道に志す人も、この四つの聖(とうと)い真理を知らなければならない。これらを知らないために、長い間、迷いの道にさまよってやむときがない。この四つの聖い真理を知る人をさとりの眼を得た人という。
だから、よく心を一つにして仏の教えを受け、この四つの聖い真理の道理を明らかに知らなければならない。いつの世のどのような聖者も、正しい聖者であるならば、みなこの四つの聖い真理をさとった人であり、四つの聖い真理を教える人である。

(パーリ、本事経 103)

この四つの聖い真理が明らかになったとき、人は初めて、欲から遠ざかり、世間と争わず、殺さず、盗まず、よこしまな愛欲を犯さず、欺(あざむ)かず、そしらず、へつらわず、ねたまず、瞋(いから)らず、人生の無常を忘れず、道にはずれることがない。

(パーリ、中部 2、一切漏経)
『和英対照仏教聖典』77頁14行~79頁8行

人間の死と無常

弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なない者はない。今わたしの身が朽(く)ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。
いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の世の真実のすがたに眼を覚まさなければならない。変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。

(般泥洹経)
『和英対照仏教聖典』23頁19行~25頁7行

念仏者は浄土に生まれる

ただ、この仏の名を心に保ち、一日または七日にわたって、心を一つにして動揺することがないならば、その人の命が終わるとき、この仏は、多くの聖(ひじり)たちとともに、その人の前に現われる。その人の心はうろたえることなく、ただちにその国に生まれることができる。
もし人が、この仏の名を聞き、この教えを信ずるならば、仏たちに守られ、この上もない正しいさとりを得ることができるのである。

(阿弥陀経)
『和英対照仏教聖典』225頁1行~8行

自らを灯火とし、頼りとせよ

弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。
わが身を見ては、その汚れを思って貪(むさぼ)らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因(もと)であると思ってふけらず、わが心を観ては、その中に「我(が)」はないと思い、それらに迷ってはならない。そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。わたしがこの世を去った後も、このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。

(長阿含経第二、遊行経)
『和英対照仏教聖典』19頁14行~21頁5行


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