悩みについて

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたいとの願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて編集しております。
ここでは、私たちにとって身近な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただけるように、『和英対照仏教聖典』の言葉から抜粋して、ご紹介いたします。

  • 悩みは執らわれの心から起こる
  • 迷いはさとりの入り口である
  • 迷いからのがれる道
  • 愛欲こそ迷いのもと
  • 欲望は過ちのもと
  • この世は火中にあり
  • 人は名利に自らを焼く
  • 財色の貪りによって人は身を滅ぼす
  • 賢いものと愚かな者の特質
  • 愚者は結果だけを見て、他人をうらやむ(たとえ話)
  • 愚者にありがちなこと

悩みは執らわれの心から起こる

それでは、人びとの憂(うれ)い、悲しみ、苦しみ、もだえは、どうして起こるのか。つまりそれは、人に執着(しゅうじゃく)があるからである。
富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着する。この執着から苦しみ悩みが生まれる。
初めから、この世界にはいろいろの災いがあり、そのうえ、老いと病と死とを避けることができないから、悲しみや苦しみがある。

(華厳経)
『和英対照仏教聖典』83頁18行~85頁6行

迷いはさとりの入口である

迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いは ない。

(パーリ、中部 2―18、蜜丸経)

だから、さとりのあるのはなお障(さまた)げとなる。闇があるから照らすということがあり、闇がなくなれば照らすということもなくなる。照らすことと照らされるものと、ともになくなってしまうのである。
まことに、道を修めるものは、さとってさとりにとどまらない。さとりのあるのはなお迷いだからである。
この境地に至れば、すべては、迷いのままにさとりであり、闇のままに光である。すべての煩悩(ぼんのう)がそのままさとりであるところまで、さとりきらなければならない。

(楞伽経)
『和英対照仏教聖典』117頁10行~119頁7行

迷いからのがれる道

人には、迷いと苦しみのもとである煩悩(ぼんのう)がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。
第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。
見方を誤るから、我(が)という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。
第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意(こころ)の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。
第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためにあると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。
第四には、何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗りを受けても耐え忍ぶことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。
第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。

(パーリ、中部 2、一切漏経)
『和英対照仏教聖典』229頁1行~231頁13行

愛欲こそ迷いのもと

愛欲は煩悩(ぼんのう)の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。
愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生ずる。愛欲は善を食う悪鬼(あっき)、あらゆる善を滅ぼす。
愛欲は花に隠れ住む毒蛇(どくじゃ)、欲の花を貪(むさぼ)るものに毒を刺して殺す。愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。愛欲は悪魔の投げた餌、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。
飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みとを得るだけである。愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。
一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。

(大般涅槃経)
『和英対照仏教聖典』169頁11行~171頁10行

欲望は過ちのもと

多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕らえられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩(ぼんのう)を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。

(パーリ、中部 26、聖求経)
『和英対照仏教聖典』233頁4行~10行

この世は火中にあり

まことに、この世は、さまざまの火に焼かれている。貪りの火、瞋(いか)りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂(うれ)い・悲しみ・苦しみ・悶(もだ)えの火、さまざまの火によって炎炎と燃えあがっている。これらの煩悩(ぼんのう)の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身(しん)・口(く)・意(い)の三つの悪い行為に導くことになる。しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥れる。

(パーリ、律蔵大品)
『和英対照仏教聖典』163頁18行~165頁6行

人は名利に自らを焼く

人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香(こう)が薫(かお)りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪(むさぼ)って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。

(四十二章経)
『和英対照仏教聖典』235頁14行~18行

財色の貪りによって人は身を滅ぼす

名誉と財と色香(いろか)とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。

(四十二章経)
『和英対照仏教聖典』235頁19行~21行

賢い者と愚かな者の特質

悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、罪を知らされるのをいやがる。善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。
このように、善人と悪人とは違っている。
愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。
一方賢い人とは常に感謝の気持ちを持ち、直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、すべての人に対して思いやりを持つことによって、感謝の気持ちを表わそうとする人である。

(パーリ、増支部 2―4)
『和英対照仏教聖典』265頁4行~14行

愚者は結果だけを見て、他人をうらやむ(たとえ話)

金持ちではあるが愚かな人がいた。他人の家の三階づくりの高層が高くそびえて、美しいのを見てうらやましく思い、自分も金持ちなのだから、高層の家を造ろうと思った。
大工を呼んで建築を言いつけた。大工は承知して、まず基礎を作り、二階を組み、それから三階に進もうとした。主人はこれを見て、もどかしそうに叫んだ。
「わたしの求めるのは土台ではない、一階でもない、二階でもない、三階の高楼(たかどの)だけだ。早くそれを作れ。」と。
愚かな者は、努め励むことを知らないで、ただ良い結果だけを求める。しかし、土台のない三階はあり得ないように、努め励むことなくして、良い結果を得られるはずがない。

(雑宝蔵経)
『和英対照仏教聖典』279頁9行~19行

愚者にありがちなこと(たとえ話)

ある男が墓場の近くに住んでいた。ある夜、墓場の中から、しきりに自分を呼ぶ声がするので、恐れ震え上がっていた。夜が明けてから、彼がそのことを友に話すと、友の中で勇気のある者が、次の夜にも呼ぶ声がしたら、その声をたずねて、そのもとをつきとめてみようと決心した。
次の夜も、前夜のように、しきりに呼ぶ声がする。呼ばれた男はおびえて震えていたが、勇気のある男は、その声をたよりに墓場に入り、声の出る場所をたずねて、おまえはだれかと聞いた。
すると、地の中から声がして、
「わたしは、地の中に隠されている宝である。わたしは、わたしの呼んだ男にわたしを与えようと思うが、彼は恐れて来ない。おまえは勇気があるからわたしを取るにふさわしい。あすの朝、わたしは七人の従者とともにおまえの家に行くであろう。」と言った。
その男はこのことばを聞いて、
「わたしの家へ来るなら待っているが、どのようにもてなしたらよいのか。」と尋ねる。
声は答えた。「わたしどもは出家(しゅっけ)の姿で行くから、まず体を清め、部屋を清めて、水を用意し、八つの器にかゆを盛って待つがよい。
食事が終わったら、ひとりひとり導いて、すみに囲った部屋の中に入れれば、わたしどもはそのまま黄金のつぼになるだろう。」と。
あくる朝、この男は、体を清め、家を清めて待っていると、はたして八人の出家が托鉢(たくはつ)にやって来た。部屋に通して、水とかゆとを供養(くよう)し、終わってからひとりひとりをすみに囲った部屋に導いた。すると、八人が八人とも、黄金のいっぱい入ったつぼに変わってしまった。
このことを聞いた欲深い男が、自分も黄金のつぼが欲しいと思い、同じように部屋を清めて托鉢の出家を八人招いて供養し、食事の後、すみの部屋に閉じこめた。しかし八人の出家は黄金のつぼになるどころではなく、怒って暴れ出し、その男はついに訴えられ、捕らえられた。
はじめに名を呼ばれておびえていた臆病な男も、呼んだ声が黄金のつぼであると知ると、これも欲を起こし、あの声はもともと自分を呼んだのだから、あのつぼは自分のものだと言いはり、その家へ入ってつぼを取ろうとすると、つぼの中には蛇がいっぱいいて、首をもたげてその男に向かっていった。
その国の王はこれを聞いて、黄金のつぼはみな、この勇気のある男のものであるとして、「世の中のことは何ごともこのとおりであって、愚かな者はただその果報だけを望むが、それはそれだけで得られるものではない。ちょうどそれは、うわべだけ戒(かい)を保っていても、心の中にまことの信心がなければ決して真の安らぎは得られないのと同じである。」と諭した。

(雑宝蔵経)
『和英対照仏教聖典』289頁18行~295頁5行


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